世界史のM先生
- 2015/04/21
- 00:00
僕は大学入試では世界史を選択した。
世界史、日本史、政治経済、地理から一つ選択することになっていたと思う。
世界史を選択した理由は、点が取りやすいという理由ではない。むしろ点の取りやすさでは、政治経済のほうが簡単だったような気がする。
受験生としては、高い得点が取れる科目を選択すべきなのであるが、僕は世界史が好きだったからだ。
政治経済は、味気ない学科だった。
そこには、人が見えない。
それに比べ、歴史は、人が躍動している。
高校に入ったころに、世界の歴史というシリーズ本が出た。毎月そのシリーズ本は発刊されていた。
最近でも、シリーズ本の初巻は特別に安いという売り方があるが、当時もそのような売り方があったかどうかは分からないが、毎月確実に本屋さんが配達してくれるのだ。
当時は、街の本屋さんは、宅配をやっていた。
そのシリーズ本は、歴史の古い順に出版されるのではなく、人気のある年代から出されていたようだ。
僕が気に入っていたのは、18世紀後半のエカテリーナ2世やフランス革命の頃。
”世界の歴史”のなかに登場するのは、宮廷のなかの貴族たち、およそ人民の生活とはかけ離れた人たちであるが、貞節という言葉など存在しないような男女関係が、政治の世界と絡まりながら展開されている。
当時は真面目な高校生には十分すぎる刺激だったとも言える。
理由はどうあれ、世界史にひかれたのは、このシリーズ本の影響が大きい。
人が躍動しているという点では、日本史でもよいのだが、世界史か日本史、いずれを選択するかは、先生の影響も大いにある。
日本史の先生は、特に古代史を専門にされていたようだ。
古墳であるとか、発掘作業が似合う先生だった。
今思うと、古代史であっても、縄文の文化は、それなりの魅力を感じるところがあるのだが、中学生、高校生にとっては、どうしても古くさい、辛気くさいというイメージが強かったのだろう。
世界史の先生は、M先生という。
非常に厳しい先生だった。授業はぴりぴりした雰囲気のなかで進められていた。
多くの生徒は嫌っていたはずだが、なぜか僕はそういうところが、変に気に入っていた。
M先生は、陸軍中野学校の出身と噂されていた。
陸軍中野学校は、戦前、戦中のスパイを養成する学校である。一般の軍人よりは、優秀な人材が集められたらしい。身分を隠して、活動するのであるから、確かに優秀な人でないと勤まらないのだろう。
高校時代にM先生が陸軍中野学校の出身と聞いたときは、単に授業が厳しいために、それを嫌う多くの生徒が、勝手に噂していたと思っていた。
ところが卒業してから何年も経ってから、同窓生たちと、その話をすると、どうやら本当らしいということになっている。
ご本人に確かめたことではないので、真偽の程は、永遠の謎である。
M先生の授業は、毎回手作りの資料、M先生がご自身で作成された資料が配られた。
当時は、こういう資料を作るのは大変な労力がかかったに違いない。
鉄筆と言われるペンで謄写版刷りをするための用紙に書いていく。
鉛筆で書くのではなく、ひとつひとつの字を書くにも、力が必要だ。
それと別に教科書はもちろんあるのだが、M先生は、毎回、キーワードの単語と、短い文章を書いたわら半紙が配られる。
そこにはM先生自身がまとめられた、世界史の流れが書いてある。
歴史というものは、歴史を動かしている大きな流れがあり、それを理解するのが重要ということを教えて頂いた。
歴史上の事件があった年号を覚えることは必要であるが、それは世界史の本質ではない。
歴史には、大きな流れがあり、その結果として、節目節目で後世に残る事件や出来事が起こる。
単なる年号を記憶する場合には、味も素っ気もない記憶を競うだけの世界史が、その中で躍動する人々が見えてくるのだ。
M先生の試験では、穴埋め問題とか、選択問題もあるが、筆記式の解答を求める問題が必ずあった。
筆記式では、 ほぼ減点されるので、満点を取ることは不可能と言われていた。
90点も取ることができれば上等も上等、クラスでもそれは数名、あるいはゼロという場合もあるくらいだ。
それが一度だけ、後にも先にもそのときだけなのだが、筆記式で減点をされなかったことがあった。
穴埋め問題や選択問題が全問正答であれば、奇跡の満点だったのだが、1箇所だけ、間違えてしまった。
結果として得点は、ほぼ満点。僕自身の世界史試験上での最高点だった。
そういう場合でもM先生は、解答用紙を返すときは、いつものように黙って返却するだけだった。
ひとことくらい、あわや満点が出そうになったことを、発表してもよいと思ったのだが、そういうほめ言葉は、決して出てこなかった。
お調子者の僕は、よくできた生徒がいる、とおだてられるとますます頑張るのだが、M先生は、冷静にいつもとおりに解答用紙を全員に返された。
M先生は、やはり陸軍中野学校出身に違いない。

世界史、日本史、政治経済、地理から一つ選択することになっていたと思う。
世界史を選択した理由は、点が取りやすいという理由ではない。むしろ点の取りやすさでは、政治経済のほうが簡単だったような気がする。
受験生としては、高い得点が取れる科目を選択すべきなのであるが、僕は世界史が好きだったからだ。
政治経済は、味気ない学科だった。
そこには、人が見えない。
それに比べ、歴史は、人が躍動している。
高校に入ったころに、世界の歴史というシリーズ本が出た。毎月そのシリーズ本は発刊されていた。
最近でも、シリーズ本の初巻は特別に安いという売り方があるが、当時もそのような売り方があったかどうかは分からないが、毎月確実に本屋さんが配達してくれるのだ。
当時は、街の本屋さんは、宅配をやっていた。
そのシリーズ本は、歴史の古い順に出版されるのではなく、人気のある年代から出されていたようだ。
僕が気に入っていたのは、18世紀後半のエカテリーナ2世やフランス革命の頃。
”世界の歴史”のなかに登場するのは、宮廷のなかの貴族たち、およそ人民の生活とはかけ離れた人たちであるが、貞節という言葉など存在しないような男女関係が、政治の世界と絡まりながら展開されている。
当時は真面目な高校生には十分すぎる刺激だったとも言える。
理由はどうあれ、世界史にひかれたのは、このシリーズ本の影響が大きい。
人が躍動しているという点では、日本史でもよいのだが、世界史か日本史、いずれを選択するかは、先生の影響も大いにある。
日本史の先生は、特に古代史を専門にされていたようだ。
古墳であるとか、発掘作業が似合う先生だった。
今思うと、古代史であっても、縄文の文化は、それなりの魅力を感じるところがあるのだが、中学生、高校生にとっては、どうしても古くさい、辛気くさいというイメージが強かったのだろう。
世界史の先生は、M先生という。
非常に厳しい先生だった。授業はぴりぴりした雰囲気のなかで進められていた。
多くの生徒は嫌っていたはずだが、なぜか僕はそういうところが、変に気に入っていた。
M先生は、陸軍中野学校の出身と噂されていた。
陸軍中野学校は、戦前、戦中のスパイを養成する学校である。一般の軍人よりは、優秀な人材が集められたらしい。身分を隠して、活動するのであるから、確かに優秀な人でないと勤まらないのだろう。
高校時代にM先生が陸軍中野学校の出身と聞いたときは、単に授業が厳しいために、それを嫌う多くの生徒が、勝手に噂していたと思っていた。
ところが卒業してから何年も経ってから、同窓生たちと、その話をすると、どうやら本当らしいということになっている。
ご本人に確かめたことではないので、真偽の程は、永遠の謎である。
M先生の授業は、毎回手作りの資料、M先生がご自身で作成された資料が配られた。
当時は、こういう資料を作るのは大変な労力がかかったに違いない。
鉄筆と言われるペンで謄写版刷りをするための用紙に書いていく。
鉛筆で書くのではなく、ひとつひとつの字を書くにも、力が必要だ。
それと別に教科書はもちろんあるのだが、M先生は、毎回、キーワードの単語と、短い文章を書いたわら半紙が配られる。
そこにはM先生自身がまとめられた、世界史の流れが書いてある。
歴史というものは、歴史を動かしている大きな流れがあり、それを理解するのが重要ということを教えて頂いた。
歴史上の事件があった年号を覚えることは必要であるが、それは世界史の本質ではない。
歴史には、大きな流れがあり、その結果として、節目節目で後世に残る事件や出来事が起こる。
単なる年号を記憶する場合には、味も素っ気もない記憶を競うだけの世界史が、その中で躍動する人々が見えてくるのだ。
M先生の試験では、穴埋め問題とか、選択問題もあるが、筆記式の解答を求める問題が必ずあった。
筆記式では、 ほぼ減点されるので、満点を取ることは不可能と言われていた。
90点も取ることができれば上等も上等、クラスでもそれは数名、あるいはゼロという場合もあるくらいだ。
それが一度だけ、後にも先にもそのときだけなのだが、筆記式で減点をされなかったことがあった。
穴埋め問題や選択問題が全問正答であれば、奇跡の満点だったのだが、1箇所だけ、間違えてしまった。
結果として得点は、ほぼ満点。僕自身の世界史試験上での最高点だった。
そういう場合でもM先生は、解答用紙を返すときは、いつものように黙って返却するだけだった。
ひとことくらい、あわや満点が出そうになったことを、発表してもよいと思ったのだが、そういうほめ言葉は、決して出てこなかった。
お調子者の僕は、よくできた生徒がいる、とおだてられるとますます頑張るのだが、M先生は、冷静にいつもとおりに解答用紙を全員に返された。
M先生は、やはり陸軍中野学校出身に違いない。
