勝ったり負けたり(2)
- 2015/04/27
- 00:00
最近の天声人語に載っていた話だ。
将棋の内藤國男さんの本のなかからの紹介記事である。
内藤さんが負けて帰ってくると、お母さんは、「相手の人が喜んではる。はよ寝なさい」と言って慰めたそうだ。
厳しい戦いを終え、それが残念な結果になる。
家に帰る。
きっと心の中は乱れて、荒れていたかもしれない。
こういうときに、通常の慰めの言葉とか、ねぎらいの言葉では、気持ちはいっこうに収まらないだろう。
そこで、勝った相手の人が喜んでいる、それはいいことをしたことになるでしょうと、言う。
そう言われると、一歩さがって、こころが熱く煮えたぎっている自分を見直すこともできるかもしれない。
内藤國男さんのお母さんの凄さを感じてしまう。
なかなかこのような境地には到達することはできないのだろうが、僕自身、いろいろ考えたことがある。
一つたどり着いたのが、苦しいときの対応の仕方のひとつだ。
まるで幽体離脱のような考え方でもある。
対応に苦しむとき、時間がなくて、どうしていいか、分からない時、極限状態に近くて、途方に暮れるとき、そういうときに、もう一人の自分を作る。
もう一人の自分は、少し離れたところから、自分を見ている。
ちょうど、第三者の立場で、まるで芝居でも見るように、困り切っている自分を見て楽しむ。
さぁ、どうするのかなぁって、いう感じで、自分を見ている。
これは、昔見た映画の一シーンでもある。
映画監督のフェデリコ・フェリーニの作品。「8 1/2」だ。
主人公が、ベッドに寝ている。
するともう一人の主人公が部屋の天井あたりに抜け出していく。
空中に浮いているのだ。
ただ、そのもう一人の主人公の足にはロープが巻かれている。
ロープの先は、ベッドにつながれている。
映画では、現実から逃避できないことを表現していたのかもしれない。
僕自身の幽体離脱は、映画と同じものではないだろう。
いずれにしても、ひとつの事象は、見方を変えれば、全く別の見方もできる。
その中にはまり込むと、抜け出しにくくなるが、一歩下がって自分を見つめることが、大事なことがある。
勝負の世界では、勝ち負けがはっきりしている。
負ければ悔しいのは、当たり前で、なかなかそれを超越することは簡単なことではない。
でも、反対側から見れば、全く新しい見方ができ、そうすることで、目の前が明るくなることもあるのだ。

将棋の内藤國男さんの本のなかからの紹介記事である。
内藤さんが負けて帰ってくると、お母さんは、「相手の人が喜んではる。はよ寝なさい」と言って慰めたそうだ。
厳しい戦いを終え、それが残念な結果になる。
家に帰る。
きっと心の中は乱れて、荒れていたかもしれない。
こういうときに、通常の慰めの言葉とか、ねぎらいの言葉では、気持ちはいっこうに収まらないだろう。
そこで、勝った相手の人が喜んでいる、それはいいことをしたことになるでしょうと、言う。
そう言われると、一歩さがって、こころが熱く煮えたぎっている自分を見直すこともできるかもしれない。
内藤國男さんのお母さんの凄さを感じてしまう。
なかなかこのような境地には到達することはできないのだろうが、僕自身、いろいろ考えたことがある。
一つたどり着いたのが、苦しいときの対応の仕方のひとつだ。
まるで幽体離脱のような考え方でもある。
対応に苦しむとき、時間がなくて、どうしていいか、分からない時、極限状態に近くて、途方に暮れるとき、そういうときに、もう一人の自分を作る。
もう一人の自分は、少し離れたところから、自分を見ている。
ちょうど、第三者の立場で、まるで芝居でも見るように、困り切っている自分を見て楽しむ。
さぁ、どうするのかなぁって、いう感じで、自分を見ている。
これは、昔見た映画の一シーンでもある。
映画監督のフェデリコ・フェリーニの作品。「8 1/2」だ。
主人公が、ベッドに寝ている。
するともう一人の主人公が部屋の天井あたりに抜け出していく。
空中に浮いているのだ。
ただ、そのもう一人の主人公の足にはロープが巻かれている。
ロープの先は、ベッドにつながれている。
映画では、現実から逃避できないことを表現していたのかもしれない。
僕自身の幽体離脱は、映画と同じものではないだろう。
いずれにしても、ひとつの事象は、見方を変えれば、全く別の見方もできる。
その中にはまり込むと、抜け出しにくくなるが、一歩下がって自分を見つめることが、大事なことがある。
勝負の世界では、勝ち負けがはっきりしている。
負ければ悔しいのは、当たり前で、なかなかそれを超越することは簡単なことではない。
でも、反対側から見れば、全く新しい見方ができ、そうすることで、目の前が明るくなることもあるのだ。
