メールのやりとり
- 2015/06/01
- 00:00
仕事での連絡は、今は当然メールである。
メールを初めて仕事で使ったのは、20年以上前のことだ。
当時のメールシステムは、メインフレームで稼働しているシステムだった。
PCでメールを使い始めたのは、それから数年後である。
1995年ごろのことだ。
PCでのメールは、NOTESを使っていた。
初めて発信したメールの内容は、今でも覚えている。
というのは、そのメールのなかで、これがNOTESで発信する初めてのメールですと書いたからである。
社内で賞をもらうことができ、それに関する連絡のメールが、当時の支社長の補佐役の人から送られて来て、その返信をしたものだった。
その頃のメールは、まだ書面で書くビジネス文書をメールに置き換えたものであった。
そのため、非常に堅い内容であり、堅実な表現方法だった。
最近では、ビジネスメールであっても、チャットと同じような書き方をしている人も多くあり、昔からメールを業務で仕事で使っている僕からすると、せめて仕事のメールは、チャットではないのだから、きちんと書いたら、と言いたくなる。
もちろん、チャット的に書けば、親しみがあり、それは電話で話す内容をただメールに書き換えただけなのだから、そのほうがいいという人も多くいる。
確かにいまでもメールも、スマホや携帯から発信することも多く、あまり形式にとらわれる必要はないのかもしれない。
ただ、メールは、後に残るものであるので、それはエビデンスとして重要な意味を持つ場合もあるわけだ。
そういう点でも、やはりビジネスに関するものは、ビジネス文書としても、最低限の体裁は考えて欲しい。
社内でも社外でも、メールの最後の発信を自分にしたい人がいる。
ある件名でメールでやりとりが始まる。
それが打ち合わせに関するものであると、最後は場所と日程を決めて終わるのであるが、これで決まりという後に、それを確認しましたというメールを送って来る人がいる。
僕は、そういう人が好きだ。
うっとうしいと思う人もいるかもしれないが、堅実な人なのだ。
話が終わってからも、つけたしのように、数回やりとりをすることもあるが、それだけやれば、先ず忘れることはない。
相手の人も、きっちりとした人だと信頼できるようになる。
これは社内の場合が多いが、お客様でも、このようなタイプの人がいる。
本来、お客様の場合は、こちらのメールで確認して終わりということにしたいのであるが、その方の場合には、最後にもう1回だめ押しが入る。
それでも、僕はそういう人が好きだ。
反対に、いくらメールを送ってもなかなか返事のない人もある。
いくら忙しくても、簡単な返事位できるだろうと思う。
そういう人に限って、送られてくるメールを読むと、舌足らずの説明で、なにを言いたいのか、よく分からない場合がある。
きっとその方も、目上の人や、自分にとって、大事だと思う人にはそのようなことはないのだろう。
きちんと丁寧に書くに違いない。
ただ、同じようなことを僕自身がやらないとは限らない。
それこそ忙しさにかまけて、メールの返事を忘れることもあるのだ。
毎日のメールの数が多いと、すぐに返信せずに、後で返信しようと思ったりすると、メールの山の中に、そのメールは埋もれてしまう。
明日にでもなろうものなら、メールへの返信が飛んでしまう。
特に大学の先生というのは、メールが多いようだ。
あるとき、溜まったメールが千通近いと言っておられた先生がおられた。
そうなると、その先生から返事をもらうのは至難の業である。
そのようなときは、メールを送ってから、電話で追いかけないといけなくなる。
メールは便利なものであるが、重要なビジネスのツールであり、やはりきめ細かい配慮をもって使いたいものである。

メールを初めて仕事で使ったのは、20年以上前のことだ。
当時のメールシステムは、メインフレームで稼働しているシステムだった。
PCでメールを使い始めたのは、それから数年後である。
1995年ごろのことだ。
PCでのメールは、NOTESを使っていた。
初めて発信したメールの内容は、今でも覚えている。
というのは、そのメールのなかで、これがNOTESで発信する初めてのメールですと書いたからである。
社内で賞をもらうことができ、それに関する連絡のメールが、当時の支社長の補佐役の人から送られて来て、その返信をしたものだった。
その頃のメールは、まだ書面で書くビジネス文書をメールに置き換えたものであった。
そのため、非常に堅い内容であり、堅実な表現方法だった。
最近では、ビジネスメールであっても、チャットと同じような書き方をしている人も多くあり、昔からメールを業務で仕事で使っている僕からすると、せめて仕事のメールは、チャットではないのだから、きちんと書いたら、と言いたくなる。
もちろん、チャット的に書けば、親しみがあり、それは電話で話す内容をただメールに書き換えただけなのだから、そのほうがいいという人も多くいる。
確かにいまでもメールも、スマホや携帯から発信することも多く、あまり形式にとらわれる必要はないのかもしれない。
ただ、メールは、後に残るものであるので、それはエビデンスとして重要な意味を持つ場合もあるわけだ。
そういう点でも、やはりビジネスに関するものは、ビジネス文書としても、最低限の体裁は考えて欲しい。
社内でも社外でも、メールの最後の発信を自分にしたい人がいる。
ある件名でメールでやりとりが始まる。
それが打ち合わせに関するものであると、最後は場所と日程を決めて終わるのであるが、これで決まりという後に、それを確認しましたというメールを送って来る人がいる。
僕は、そういう人が好きだ。
うっとうしいと思う人もいるかもしれないが、堅実な人なのだ。
話が終わってからも、つけたしのように、数回やりとりをすることもあるが、それだけやれば、先ず忘れることはない。
相手の人も、きっちりとした人だと信頼できるようになる。
これは社内の場合が多いが、お客様でも、このようなタイプの人がいる。
本来、お客様の場合は、こちらのメールで確認して終わりということにしたいのであるが、その方の場合には、最後にもう1回だめ押しが入る。
それでも、僕はそういう人が好きだ。
反対に、いくらメールを送ってもなかなか返事のない人もある。
いくら忙しくても、簡単な返事位できるだろうと思う。
そういう人に限って、送られてくるメールを読むと、舌足らずの説明で、なにを言いたいのか、よく分からない場合がある。
きっとその方も、目上の人や、自分にとって、大事だと思う人にはそのようなことはないのだろう。
きちんと丁寧に書くに違いない。
ただ、同じようなことを僕自身がやらないとは限らない。
それこそ忙しさにかまけて、メールの返事を忘れることもあるのだ。
毎日のメールの数が多いと、すぐに返信せずに、後で返信しようと思ったりすると、メールの山の中に、そのメールは埋もれてしまう。
明日にでもなろうものなら、メールへの返信が飛んでしまう。
特に大学の先生というのは、メールが多いようだ。
あるとき、溜まったメールが千通近いと言っておられた先生がおられた。
そうなると、その先生から返事をもらうのは至難の業である。
そのようなときは、メールを送ってから、電話で追いかけないといけなくなる。
メールは便利なものであるが、重要なビジネスのツールであり、やはりきめ細かい配慮をもって使いたいものである。
