耳鼻咽喉科 (1)
- 2015/06/03
- 00:00
小学生のとき、毎月だったか、2ヶ月か3ヶ月に1回だったか、同じ市内の小学校の生徒が市内の大きな劇場に集まって、映画を鑑賞する日があった。
上映された映画は、文部省推薦の邦画だったり、海外の映画でも、子供が主人公の映画や、ウィーン少年合唱団の作品だった。
その日は、朝はいつもとおり学校に集まる。
全員が揃ったところで、徒歩で劇場に向かうのだ。
小学生の足だと30分くらいはかかる距離だ。
片道30分ということは、往復するので1時間は歩くことになる。
体育の授業も兼ねていたのかもしれない。
映画の日は、授業がないわけで、生徒はどこかうきうきしている。
遠足の日ほどではないが、勉強をしなくてよいのだから、うれしくなって当然だ。
映画の帰り道では、その日見た映画について、同じクラスの友達同士で、いろいろ話すことが多い。
そういうときは、当然、女の子のほうが饒舌で、話題を引っ張ることになる。
僕のクラスに、すこし不良がかった男の子がいた。
F君だ。
彼は、成績は中の上というところだったが、どこか大人びていて、ませたことを言うので、他の男子生徒も一目置いてるようなところがあった。
その日は、悲しい映画が上映された。
小学生でも、特に女の子は、涙を流すような内容だ。
不幸な環境のなかで、逆境にめげずに、しっかりと生きていく兄妹が主人公という、まさに文部省推薦映画だ。
帰り道、悲しい映画のことを話していたとき、F君が言ったことを今でも覚えている。
「悲しい映画と言えば、一番悲しいのは、西部劇だ」と。
当時、僕は西部劇を見たことはなかった。
それは多くの小学生にも共通だったはずで、F君は、他の小学生が見た事もないだろうと思って、そのようなことを言ったのかもしれない。
でも、それを聞いたときは、西部劇はそんなに悲しいのか、ということだけが、強烈な印象として残った。
そのことだけが僕の頭の中に擦り込まれた。
僕が見た、一番古い西部劇は、このブログの中でも書いた“How the West was won” だ。
これは決して悲しい映画ではない。
この西部劇は悲しいということは、僕のなかにずぅっと残っていた。
自由に映画を見られるようになってからも、気にしていたが、なにが悲しいのか、いまだに答えがない。
きっと、それは“シェーン”の最後のシーンが、多くの人のこころに残るような、そういう感情を言うのかもしれない。
映画鑑賞の日の往復の徒歩のなかで、F君の言った言葉で覚えていることがもうひとつある。
それはちょうど、学校から劇場の間にあった看板の読み方に関するものだ。
駅前に有名なY耳鼻咽喉科があった。
Y先生は、その道では有名な先生だったらしい。
いわゆる、医者がかかる医者という先生で、その診断の正確さは評判だった。
入院できる部屋までいくつかある町の病院だった。
僕が仕事を始めてからも、まだY先生は、現役で仕事をされていて、きっと70歳代だったと思うが、朝は6時から病院をあけられていた。
仕事に行く前に、診てもらうことができ、喉の調子の悪いときは、仕事前に吸入をしてもらったり、随分助かったことが多かった。
そのY耳鼻咽喉科の看板を見て、当時小学校4年生の僕が、それを間違いなく読んだのである。
それを聞いて、F君は、「こいつはすごい勉強をしている」とみんなに言った。
確かに耳鼻(じび)はともかく、咽喉(いんこう)は、小学校では習わない漢字だったかもしれない。
そのような小学4年生には難しい漢字を読んだのを見て、F君は驚いたのだろう。
でも、僕にとっては、低学年の頃から、喉がおかしいときは、いつも通っていた近所の医院なので、読めて当然の漢字だったのである。
F君から、ほめられたというか、驚かれて、内心こそばゆい感じがした。
その字を正確に読んだことが分かっていたのだから、F君こそ、すごく勉強をしていたのかもしれない。
F君は、今頃どうしているのだろうか。
今思えば、決して不良ではなかった。
すこしませていただけの小学生だった。
上映された映画は、文部省推薦の邦画だったり、海外の映画でも、子供が主人公の映画や、ウィーン少年合唱団の作品だった。
その日は、朝はいつもとおり学校に集まる。
全員が揃ったところで、徒歩で劇場に向かうのだ。
小学生の足だと30分くらいはかかる距離だ。
片道30分ということは、往復するので1時間は歩くことになる。
体育の授業も兼ねていたのかもしれない。
映画の日は、授業がないわけで、生徒はどこかうきうきしている。
遠足の日ほどではないが、勉強をしなくてよいのだから、うれしくなって当然だ。
映画の帰り道では、その日見た映画について、同じクラスの友達同士で、いろいろ話すことが多い。
そういうときは、当然、女の子のほうが饒舌で、話題を引っ張ることになる。
僕のクラスに、すこし不良がかった男の子がいた。
F君だ。
彼は、成績は中の上というところだったが、どこか大人びていて、ませたことを言うので、他の男子生徒も一目置いてるようなところがあった。
その日は、悲しい映画が上映された。
小学生でも、特に女の子は、涙を流すような内容だ。
不幸な環境のなかで、逆境にめげずに、しっかりと生きていく兄妹が主人公という、まさに文部省推薦映画だ。
帰り道、悲しい映画のことを話していたとき、F君が言ったことを今でも覚えている。
「悲しい映画と言えば、一番悲しいのは、西部劇だ」と。
当時、僕は西部劇を見たことはなかった。
それは多くの小学生にも共通だったはずで、F君は、他の小学生が見た事もないだろうと思って、そのようなことを言ったのかもしれない。
でも、それを聞いたときは、西部劇はそんなに悲しいのか、ということだけが、強烈な印象として残った。
そのことだけが僕の頭の中に擦り込まれた。
僕が見た、一番古い西部劇は、このブログの中でも書いた“How the West was won” だ。
これは決して悲しい映画ではない。
この西部劇は悲しいということは、僕のなかにずぅっと残っていた。
自由に映画を見られるようになってからも、気にしていたが、なにが悲しいのか、いまだに答えがない。
きっと、それは“シェーン”の最後のシーンが、多くの人のこころに残るような、そういう感情を言うのかもしれない。
映画鑑賞の日の往復の徒歩のなかで、F君の言った言葉で覚えていることがもうひとつある。
それはちょうど、学校から劇場の間にあった看板の読み方に関するものだ。
駅前に有名なY耳鼻咽喉科があった。
Y先生は、その道では有名な先生だったらしい。
いわゆる、医者がかかる医者という先生で、その診断の正確さは評判だった。
入院できる部屋までいくつかある町の病院だった。
僕が仕事を始めてからも、まだY先生は、現役で仕事をされていて、きっと70歳代だったと思うが、朝は6時から病院をあけられていた。
仕事に行く前に、診てもらうことができ、喉の調子の悪いときは、仕事前に吸入をしてもらったり、随分助かったことが多かった。
そのY耳鼻咽喉科の看板を見て、当時小学校4年生の僕が、それを間違いなく読んだのである。
それを聞いて、F君は、「こいつはすごい勉強をしている」とみんなに言った。
確かに耳鼻(じび)はともかく、咽喉(いんこう)は、小学校では習わない漢字だったかもしれない。
そのような小学4年生には難しい漢字を読んだのを見て、F君は驚いたのだろう。
でも、僕にとっては、低学年の頃から、喉がおかしいときは、いつも通っていた近所の医院なので、読めて当然の漢字だったのである。
F君から、ほめられたというか、驚かれて、内心こそばゆい感じがした。
その字を正確に読んだことが分かっていたのだから、F君こそ、すごく勉強をしていたのかもしれない。
F君は、今頃どうしているのだろうか。
今思えば、決して不良ではなかった。
すこしませていただけの小学生だった。
