読書感想文
- 2015/07/12
- 00:00
読書感想文を初めて書いたのは、中学1年生のときだった。
夏休みの宿題という、よくあるパターンだ。
当時、僕が取り上げたのは、夏目漱石の“我が輩は猫である”だ。
僕の家に漱石の本があった。
それは小学生か中学生向けの全集の一冊だった。
その本は、それほど厚い本ではなかった。
"坊ちゃん“と一緒に”我が輩は猫である“が載っていた。
まだ世間の常識がない中学生である。
この2つの小説が一冊の本になっていることが、今考えればおかしいのである。
本の厚さにしても、随分分厚くならないとおかしい。
そんなことを全く気にせずに夏休みの終わりに感想文を書き上げた。
分量は原稿用紙に2枚程度だったと思う。
その宿題は、出したら終わりで、その後、国語の先生から採点された結果とか、評価を書いたものをもらったという記憶がない。
原稿用紙を返してもらったという記憶もない。
ただ、唯一覚えているのは、小説がえらく中途半端なところで終わっていたのである。
たしか、もっと後に読んだときは、“我が輩”は死んでいるのだが、僕の中学一年生の“我が輩”は死んでいなかった。
僕の読んだ“我が輩は猫である”のタイトルの後ろには、(抄)という文字がついていたのである。
当時は、(抄)の意味も分からずに、おっ、これは短いと思って、感想文を書いたのだ。
国語の先生から、なにもそれについて、注意を受けることもなかった。
もちろん宿題の再提出という指示もなかった。
確かに、“我が輩は猫である(抄)”の読書感想文としては、なんら問題はないのである。
抄本の感想文は認めないということも言われていないのである。
だが、なにも分かっていない中学生が読むような文学全集のなかに、抄本を織り込むこと自体が、編集者は何を考えていたのだろうと言いたいね。
本の分量を稼ぐために、苦肉の策だったのかもしれないが、全文を載せられるような小説でも随筆でも、捜してくるべきだと思う。
訳も分からずに、これを全文だと思って、感想文を書く方も書く方だが、編集者も、もう少し考えて欲しいものだ。

夏休みの宿題という、よくあるパターンだ。
当時、僕が取り上げたのは、夏目漱石の“我が輩は猫である”だ。
僕の家に漱石の本があった。
それは小学生か中学生向けの全集の一冊だった。
その本は、それほど厚い本ではなかった。
"坊ちゃん“と一緒に”我が輩は猫である“が載っていた。
まだ世間の常識がない中学生である。
この2つの小説が一冊の本になっていることが、今考えればおかしいのである。
本の厚さにしても、随分分厚くならないとおかしい。
そんなことを全く気にせずに夏休みの終わりに感想文を書き上げた。
分量は原稿用紙に2枚程度だったと思う。
その宿題は、出したら終わりで、その後、国語の先生から採点された結果とか、評価を書いたものをもらったという記憶がない。
原稿用紙を返してもらったという記憶もない。
ただ、唯一覚えているのは、小説がえらく中途半端なところで終わっていたのである。
たしか、もっと後に読んだときは、“我が輩”は死んでいるのだが、僕の中学一年生の“我が輩”は死んでいなかった。
僕の読んだ“我が輩は猫である”のタイトルの後ろには、(抄)という文字がついていたのである。
当時は、(抄)の意味も分からずに、おっ、これは短いと思って、感想文を書いたのだ。
国語の先生から、なにもそれについて、注意を受けることもなかった。
もちろん宿題の再提出という指示もなかった。
確かに、“我が輩は猫である(抄)”の読書感想文としては、なんら問題はないのである。
抄本の感想文は認めないということも言われていないのである。
だが、なにも分かっていない中学生が読むような文学全集のなかに、抄本を織り込むこと自体が、編集者は何を考えていたのだろうと言いたいね。
本の分量を稼ぐために、苦肉の策だったのかもしれないが、全文を載せられるような小説でも随筆でも、捜してくるべきだと思う。
訳も分からずに、これを全文だと思って、感想文を書く方も書く方だが、編集者も、もう少し考えて欲しいものだ。
