上司Kさん
- 2015/07/27
- 00:00
Kさんは、僕の直属の上司だったことが3年間ある。
IT系の会社に在籍していたときは、直属の上司は、毎年変わることもあったので、3年間というのは、長い方である。
その前の日本企業にいたときは、10年半の在籍中、一番長い人は、8年くらい僕の上司だった。直属でない場合も除くと、もっと長い期間、何らかの形で僕を見ていたわけだ。
Kさんは戸籍上の年齢は、僕より一つ下である。
Kさんのお陰でいろいろ新しいことにチャレンジすることができた。
いまも僕がライフワークのように続けていることがあるが、もとをたどれば、Kさんに相談したときに、Kさんがすぐに動いてくれたので、始めることができたと言ってもいい。
そのとき、Kさんは、それはいい、すぐやりましょうと言って、幹事会社が必要だったのだが、一番近くにオフィスがあったパートナー会社に一緒に行ってくれた。
こういうときは、役職のある人が動くと事が早く進むものだ。
パートナー会社はすぐに話しに乗ってくれた。
実際は、そのときは、参加者が集まらずに、再度仕切り直しになったのだが、僕にとっては、こうやれば新しい世界が開かれるのだということを認識することができた。
Kさんが僕を押してくれたのだ。
Kさんの部下になる前の年は、僕の上司のマネジャーとは、あまり馬が合わなかった。
こればかりは、どうしようもないことで、論理的には説明できない、好き嫌いというのは、変えることが先ず無理だ。
そのマネジャーは、Kさんにもあまりいい人ではなかったようで、僕の評価を低くつけていたことにKさんは、随分怒っておられた。
僕は、Kさんとは相性もよかったので、自由にやらせていただいた。
もちろん、上司として厳しいことも言われたが、僕のIT系の会社における非常に関係の良かった上司の一人であることには間違いない。
僕は、乗せられるとドンドン調子に乗って、やってしまうところがあり、当時の僕は、次々に新しい提案をして、それを実現していった。
ビジネスの実績がどうだったかというと、そのときは100%営業という立場でないこともあり、後で振り返ると実績はほどほどのところだったと思う。
ただ、僕にとっては、Kさんとの3年間で、やっていく自信のようなものをつかんでいた。
いつまでもKさんの下で仕事をしたいと思っていたが、4年目に入るときに、Kさんは転勤になり、僕とは別の勤務地となった。
Kさん自身が昇進したのである。
Kさんに教えられたことはいくつもあるが、僕がKさんを見て、感心したことは、周りに対して、“ありがとう”ということだった。
これは当たり前のことかもしれないが、地位が高くなるとなかなか誰にでも言えないようなところがある。
随分優しい人だと思った。
その話を隣の部署の秘書の女性に話したところ、いつもいつもKさんが優しいわけではない,やはり自分と合わない人に対しては非常に厳しいところがあるという返事が返ってきた。
たしかに、人事的な面でも決定権を持たれていたのだが、後で振り返ると、あれは厳しい人事異動だと思うことがあった。
勤務地が変わられてからは、部門が大きく変わってしまったので、一緒に仕事をすることもなくなり、年に1回の年賀状のやりとりだけが続くことになった。
それは、僕がIT系の会社を退職してからも続いていたのだが、あるとき、僕にKさんに関するメールが入ってきた。
それは、同じIT系の会社にいた人からのメールで、僕は名前だけは知っているという人だった。
Kさんが急死されたという内容だった。
ガンだ。
僕はお通夜の日に遅い時間に車で会場へ入った。
もう誰も参列者はいなくて、部屋に入っていくと、棺があり、遺影が正面に飾られている。
僕は一人で長い時間、遺影をじっと見つめていた。
Kさんは照れくさそうに、笑っておられた。
部屋を出て行くと、誰かが知らせたのだろう、奥さんと息子さんがこちらに来られた。
お会いしたことはなかったが、きっとKさんから僕の話は聞いておられたのだろう。
年賀状も読まれていたのかもしれない。
初めてお会いしたのに、そうではないような会話があった。
しばらくKさんのことをお話しした。
葬儀会館を出て、僕は駐車場に向かっていった。
車のロックをはずし、車に乗り込もうとした。
そのときだった。
車のドアを閉めようとしたのだが、ドアがもう一度開いて、なんどか揺れた。
まるでKさんが僕に話しかけているような、なにか言っているような気がした。
僕は、もう一度、Kさんに話しかけて、車に乗り込んだ。

IT系の会社に在籍していたときは、直属の上司は、毎年変わることもあったので、3年間というのは、長い方である。
その前の日本企業にいたときは、10年半の在籍中、一番長い人は、8年くらい僕の上司だった。直属でない場合も除くと、もっと長い期間、何らかの形で僕を見ていたわけだ。
Kさんは戸籍上の年齢は、僕より一つ下である。
Kさんのお陰でいろいろ新しいことにチャレンジすることができた。
いまも僕がライフワークのように続けていることがあるが、もとをたどれば、Kさんに相談したときに、Kさんがすぐに動いてくれたので、始めることができたと言ってもいい。
そのとき、Kさんは、それはいい、すぐやりましょうと言って、幹事会社が必要だったのだが、一番近くにオフィスがあったパートナー会社に一緒に行ってくれた。
こういうときは、役職のある人が動くと事が早く進むものだ。
パートナー会社はすぐに話しに乗ってくれた。
実際は、そのときは、参加者が集まらずに、再度仕切り直しになったのだが、僕にとっては、こうやれば新しい世界が開かれるのだということを認識することができた。
Kさんが僕を押してくれたのだ。
Kさんの部下になる前の年は、僕の上司のマネジャーとは、あまり馬が合わなかった。
こればかりは、どうしようもないことで、論理的には説明できない、好き嫌いというのは、変えることが先ず無理だ。
そのマネジャーは、Kさんにもあまりいい人ではなかったようで、僕の評価を低くつけていたことにKさんは、随分怒っておられた。
僕は、Kさんとは相性もよかったので、自由にやらせていただいた。
もちろん、上司として厳しいことも言われたが、僕のIT系の会社における非常に関係の良かった上司の一人であることには間違いない。
僕は、乗せられるとドンドン調子に乗って、やってしまうところがあり、当時の僕は、次々に新しい提案をして、それを実現していった。
ビジネスの実績がどうだったかというと、そのときは100%営業という立場でないこともあり、後で振り返ると実績はほどほどのところだったと思う。
ただ、僕にとっては、Kさんとの3年間で、やっていく自信のようなものをつかんでいた。
いつまでもKさんの下で仕事をしたいと思っていたが、4年目に入るときに、Kさんは転勤になり、僕とは別の勤務地となった。
Kさん自身が昇進したのである。
Kさんに教えられたことはいくつもあるが、僕がKさんを見て、感心したことは、周りに対して、“ありがとう”ということだった。
これは当たり前のことかもしれないが、地位が高くなるとなかなか誰にでも言えないようなところがある。
随分優しい人だと思った。
その話を隣の部署の秘書の女性に話したところ、いつもいつもKさんが優しいわけではない,やはり自分と合わない人に対しては非常に厳しいところがあるという返事が返ってきた。
たしかに、人事的な面でも決定権を持たれていたのだが、後で振り返ると、あれは厳しい人事異動だと思うことがあった。
勤務地が変わられてからは、部門が大きく変わってしまったので、一緒に仕事をすることもなくなり、年に1回の年賀状のやりとりだけが続くことになった。
それは、僕がIT系の会社を退職してからも続いていたのだが、あるとき、僕にKさんに関するメールが入ってきた。
それは、同じIT系の会社にいた人からのメールで、僕は名前だけは知っているという人だった。
Kさんが急死されたという内容だった。
ガンだ。
僕はお通夜の日に遅い時間に車で会場へ入った。
もう誰も参列者はいなくて、部屋に入っていくと、棺があり、遺影が正面に飾られている。
僕は一人で長い時間、遺影をじっと見つめていた。
Kさんは照れくさそうに、笑っておられた。
部屋を出て行くと、誰かが知らせたのだろう、奥さんと息子さんがこちらに来られた。
お会いしたことはなかったが、きっとKさんから僕の話は聞いておられたのだろう。
年賀状も読まれていたのかもしれない。
初めてお会いしたのに、そうではないような会話があった。
しばらくKさんのことをお話しした。
葬儀会館を出て、僕は駐車場に向かっていった。
車のロックをはずし、車に乗り込もうとした。
そのときだった。
車のドアを閉めようとしたのだが、ドアがもう一度開いて、なんどか揺れた。
まるでKさんが僕に話しかけているような、なにか言っているような気がした。
僕は、もう一度、Kさんに話しかけて、車に乗り込んだ。
