人生に定年はない(1)
- 2015/08/24
- 00:00
永平寺に行ったときに、道元禅師からのメッセージという小冊子を見つけた。
小冊子の表紙には、「慕古心(もこしん)」と書かれている。
“「慕古心」とは、「永遠の真実」を探し求めることであり、「道元禅師からのメッセージ」はそのための羅針盤に他なりません。“という説明がある。
このなかには、16の言葉がある。
それぞれに説明が書かれているが、それは日本語と英語の2つの文章で表されている。
十方三世一切仏(じーほーさんしーいーしーふー)。
諸尊菩薩摩訶薩(しーそんぶーさーもーこーさー)。
摩訶般若波羅蜜(もーこーほーじゃほーろーみー)。
美しい地球よ永遠に
仏法は座禅
仏道の祈り
大いなる慈悲
仏教の戒め
大自然のめぐみ
仏心のめざめ
修せざれば現れず
正しい宗教
はきものをそろえる
最初の一歩
人の価値
人生に定年はない
どう生きるか
無常ならざるもの
これが16の道元禅師からの言葉だ。
ちょうどこれらの言葉に出会ったのが、定年の直後だったので、”人生に定年はない“といいう言葉が強く残っている。
その説明にはこう書いてある。
人生に定年はありません
老後も余生もないのです
死を迎えるその一瞬までは人生の現役です
人生の現役とはみずからの人生を
悔いなく生き切る人のことです
そこには「老い」や「死」への恐れはなく
「尊く美しい老い」と「安らかな死」があるばかりです
僕の解釈では、曹洞宗では、座禅による修行を行うけれど、修行というのは、食事をするときでも、入浴するときでも、いつでも修行であり、修行のときとそうでないときという区別はない。
修行には、オンとオフの区別はない。
それと同じように、どこかに定年があって、はい、ご苦労様、後は楽に過ごしてください、というものではない、すべてのことが現役であって、境目はない、というように理解している。
こうやって、進んで行くうちに、だんだんとなにかが見えてくるのだろう。
なぜ生きているのかとか、なにのために命が与えられているのだろうか、とか。
そういうことが分かってくると、僕は考えている。
なかなか答えは出てこないのだけど、あるときは、これが答えだと思っても、時間がたつと、また別の答えが出てきたりするのだ。
小冊子の表紙には、「慕古心(もこしん)」と書かれている。
“「慕古心」とは、「永遠の真実」を探し求めることであり、「道元禅師からのメッセージ」はそのための羅針盤に他なりません。“という説明がある。
このなかには、16の言葉がある。
それぞれに説明が書かれているが、それは日本語と英語の2つの文章で表されている。
十方三世一切仏(じーほーさんしーいーしーふー)。
諸尊菩薩摩訶薩(しーそんぶーさーもーこーさー)。
摩訶般若波羅蜜(もーこーほーじゃほーろーみー)。
美しい地球よ永遠に
仏法は座禅
仏道の祈り
大いなる慈悲
仏教の戒め
大自然のめぐみ
仏心のめざめ
修せざれば現れず
正しい宗教
はきものをそろえる
最初の一歩
人の価値
人生に定年はない
どう生きるか
無常ならざるもの
これが16の道元禅師からの言葉だ。
ちょうどこれらの言葉に出会ったのが、定年の直後だったので、”人生に定年はない“といいう言葉が強く残っている。
その説明にはこう書いてある。
人生に定年はありません
老後も余生もないのです
死を迎えるその一瞬までは人生の現役です
人生の現役とはみずからの人生を
悔いなく生き切る人のことです
そこには「老い」や「死」への恐れはなく
「尊く美しい老い」と「安らかな死」があるばかりです
僕の解釈では、曹洞宗では、座禅による修行を行うけれど、修行というのは、食事をするときでも、入浴するときでも、いつでも修行であり、修行のときとそうでないときという区別はない。
修行には、オンとオフの区別はない。
それと同じように、どこかに定年があって、はい、ご苦労様、後は楽に過ごしてください、というものではない、すべてのことが現役であって、境目はない、というように理解している。
こうやって、進んで行くうちに、だんだんとなにかが見えてくるのだろう。
なぜ生きているのかとか、なにのために命が与えられているのだろうか、とか。
そういうことが分かってくると、僕は考えている。
なかなか答えは出てこないのだけど、あるときは、これが答えだと思っても、時間がたつと、また別の答えが出てきたりするのだ。
