札幌ころころ(2)
- 2015/09/20
- 00:00
札幌の時計台に入り、新渡戸稲造の農学校の二期生であることを、改めてしっかりと認識した。
それもあって、時計台が気に入ってしまった。
もともと入場券を買ったときの時計台の職員の方の対応も気持がよかったこともある。
僕の前に入場券を購入していたのは、外国からの若いカップルだった。
小銭入れから、一生懸命、コインを出して、数えている。
数をいいながら、ひとつずつ出していくのだ。
僕もアメリカに行けば,同じことをやっていた。
入場券担当の職員のかたは、微笑みながら待っている。
「写真を撮ってもいいですか」と尋ねる。
「はい、いいですよ」と答えが来る。
中に入っているのは観光客であるが、日本人の比率が少ない。
半分くらいだろうか。
日本人の場合は、年輩のかたが多い。
もちろん、僕もその範疇の人間ではあるのだが。
その分、建物の中が落ち着いている。
静かだ。
札幌から戻って、いろいろ調べていると、“日本三大がっかり名所“というのがあって、そのひとつがこの札幌の時計台という。
ちなみに後の2つは、高知のはりやま橋ともうひとつは諸説があるという。
確かに高知のはりやま橋は、”南国土佐を後にして“のなかで歌われていたのを覚えていて、はじめて現地で見たときに、これが橋かと驚いた。
これはがっかりと言えばがっかりであるが、時計台は、僕にはがっかりとは全く反対の印象だ。
ちいさな建物なので、あまり多くの人が押しかけても、入りきらなくて、落ち着いた雰囲気が壊されるだろう。
そういう意味では、がっかりが定着してくれて、あまり多くの人が来ないほうが、よいのかもしれないね。
三大が出たついでに、世の中にある三大という場合に、3つめが決めきれない場合が多いようだ。
以前、富山県の高岡に行ったときに、ここには日本三大大仏のひとつがあると聞いた。
高岡に大仏があることも知らなかったので、へぇと思ったのだが、これも三大の3つめは諸説紛々というものだ。
大仏は、奈良と鎌倉、これが二大大仏で、それだけでいいと思うのだが、三というほうが収まりがいいのだろうか、無理に三つ目を作るので、おかしくなってくる。
時計台は2階建てだ。
2階は演武場として、大きなスペースがある。
講堂のような作りなっていて、長いすが並んでいる。
その奧には、時計台の中心とも言える機械式の時計がある。
この時計は,今でも動いているのだが、その管理維持のため結構な労力がかかるという。
一時期は、予算がなくて、止まっていたこともあったのだ。
1階の新渡戸稲造の写真と並んで同期生の写真がある。
内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲造の3人が傑出している。
内村鑑三は、僕の中ではキリスト教の関係者というところで名前が記憶されている。
詳しくは知らない。
だが、簡単に生涯を追うだけでも、一番波乱万丈の人生だったような気がする。
それはキリスト教の聖人君子という既成概念のせいかもしれない。
結婚も3回しているのだね。
宮部金吾には、この日、もう一度知る機会が出てくるのだ。
まだこのときは分かっていない。
この時代の人は、生まれたのは、江戸時代だ。
新渡戸稲造は文久、内村鑑三と宮部金吾は万延だ。
年号は短い場合は1年にも満たないこともあり、どんどん変わっていくので、当時の人は、年号を覚えることなんかできていなかったのだろう。
僕の中の年号は、歴史的なことが起こったものしか記憶にない。
安政の大獄とか、天保の飢饉とか。
万延は大江健三郎さんの万延元年のフットボールだね。
時計台を出るときに、預けていたコロコロとカメラを受け取る。
そのときの掛かりの女性の方は随分きれいな人だった。
時計台の入って来たところから出て行って、もう一度建物全体を見る。
相変わらず、時計台の周りには観光客が多い。
きっとほとんどの人は中には入らないのだろう。
時計台という名前の書いてあるところで写真を撮って終わりだ。
なかには素晴らしいものがあるのに、それを見ずに帰るのはもったいない話だ。
時計台を出て西に進む。
次は、北海道庁旧本庁舎、別名赤れんが庁舎へ向かう。
(つづく)
農学校の一期生、渡瀬寅次郎

二期生の一人、新渡戸稲造

1階にある建物の模型

外国人教師達、クラーク博士の滞在期間は最短

2階の演武場


これが時計台の機械式時計

それもあって、時計台が気に入ってしまった。
もともと入場券を買ったときの時計台の職員の方の対応も気持がよかったこともある。
僕の前に入場券を購入していたのは、外国からの若いカップルだった。
小銭入れから、一生懸命、コインを出して、数えている。
数をいいながら、ひとつずつ出していくのだ。
僕もアメリカに行けば,同じことをやっていた。
入場券担当の職員のかたは、微笑みながら待っている。
「写真を撮ってもいいですか」と尋ねる。
「はい、いいですよ」と答えが来る。
中に入っているのは観光客であるが、日本人の比率が少ない。
半分くらいだろうか。
日本人の場合は、年輩のかたが多い。
もちろん、僕もその範疇の人間ではあるのだが。
その分、建物の中が落ち着いている。
静かだ。
札幌から戻って、いろいろ調べていると、“日本三大がっかり名所“というのがあって、そのひとつがこの札幌の時計台という。
ちなみに後の2つは、高知のはりやま橋ともうひとつは諸説があるという。
確かに高知のはりやま橋は、”南国土佐を後にして“のなかで歌われていたのを覚えていて、はじめて現地で見たときに、これが橋かと驚いた。
これはがっかりと言えばがっかりであるが、時計台は、僕にはがっかりとは全く反対の印象だ。
ちいさな建物なので、あまり多くの人が押しかけても、入りきらなくて、落ち着いた雰囲気が壊されるだろう。
そういう意味では、がっかりが定着してくれて、あまり多くの人が来ないほうが、よいのかもしれないね。
三大が出たついでに、世の中にある三大という場合に、3つめが決めきれない場合が多いようだ。
以前、富山県の高岡に行ったときに、ここには日本三大大仏のひとつがあると聞いた。
高岡に大仏があることも知らなかったので、へぇと思ったのだが、これも三大の3つめは諸説紛々というものだ。
大仏は、奈良と鎌倉、これが二大大仏で、それだけでいいと思うのだが、三というほうが収まりがいいのだろうか、無理に三つ目を作るので、おかしくなってくる。
時計台は2階建てだ。
2階は演武場として、大きなスペースがある。
講堂のような作りなっていて、長いすが並んでいる。
その奧には、時計台の中心とも言える機械式の時計がある。
この時計は,今でも動いているのだが、その管理維持のため結構な労力がかかるという。
一時期は、予算がなくて、止まっていたこともあったのだ。
1階の新渡戸稲造の写真と並んで同期生の写真がある。
内村鑑三、宮部金吾、新渡戸稲造の3人が傑出している。
内村鑑三は、僕の中ではキリスト教の関係者というところで名前が記憶されている。
詳しくは知らない。
だが、簡単に生涯を追うだけでも、一番波乱万丈の人生だったような気がする。
それはキリスト教の聖人君子という既成概念のせいかもしれない。
結婚も3回しているのだね。
宮部金吾には、この日、もう一度知る機会が出てくるのだ。
まだこのときは分かっていない。
この時代の人は、生まれたのは、江戸時代だ。
新渡戸稲造は文久、内村鑑三と宮部金吾は万延だ。
年号は短い場合は1年にも満たないこともあり、どんどん変わっていくので、当時の人は、年号を覚えることなんかできていなかったのだろう。
僕の中の年号は、歴史的なことが起こったものしか記憶にない。
安政の大獄とか、天保の飢饉とか。
万延は大江健三郎さんの万延元年のフットボールだね。
時計台を出るときに、預けていたコロコロとカメラを受け取る。
そのときの掛かりの女性の方は随分きれいな人だった。
時計台の入って来たところから出て行って、もう一度建物全体を見る。
相変わらず、時計台の周りには観光客が多い。
きっとほとんどの人は中には入らないのだろう。
時計台という名前の書いてあるところで写真を撮って終わりだ。
なかには素晴らしいものがあるのに、それを見ずに帰るのはもったいない話だ。
時計台を出て西に進む。
次は、北海道庁旧本庁舎、別名赤れんが庁舎へ向かう。
(つづく)
農学校の一期生、渡瀬寅次郎

二期生の一人、新渡戸稲造

1階にある建物の模型

外国人教師達、クラーク博士の滞在期間は最短

2階の演武場


これが時計台の機械式時計
