山形での時間
- 2015/09/28
- 00:00
はじめて山形県に行ったのは、9年くらい前だ。
米沢市である。
例によって、金曜日に講演会を開催することになっていた。
珍しく前日の午後、まだ明るい時間に米沢のホテルに入った。
ちょうど、同じ頃に僕の先輩であるTさんも同じホテルに入っていた。
Tさんのことは、以前このブログでもなんどか紹介している。
僕より年上の先輩であるが、若い人には同じ目線で話しができる方だ。
Tさんとの時間はいつも楽しい。
Tさんと食事に行きましょうと声をかけると、もちろん話はすぐにまとまる。
米沢に来たのだから、折角だから米沢牛を食べようということになった。
でも二人ともそれほど夕食にお金を使うことはしたくない。
ちょうど適当な値段で米沢牛を食べることができるところがあった。
上杉伯爵邸という。
それは旧米沢藩の庭園がある屋敷をお店にしていた。
大きな座敷の部屋に通される。
目の前は、庭園だ。
食卓からの景色は贅沢である。
時間が早いせいか、他のお客さんはまだいない。
米沢牛の定番の食事を注文する。
期待とおりおいしかった。
Tさんと明日からのことを話したり、一緒にやっている活動のことを話したり、大いに盛り上がった。
食事を終えて、席を立った。
会計をするところの壁に額がある。
額の中に、有名な言葉がある。
“なせば成る、なさねば成らぬ、何事も、成らぬは人のなさるなりけり”
それを見て、Tさんは“上杉鷹山の言葉ですね”と言う。
上杉鷹山という名前は、うっすらと僕の頭の中に残っていた。
あまり詳しくは知らなかった名前だ。
ケネディ大統領が、日本の記者団から、最も尊敬する日本人は誰ですかという質問を受けた。
その答えが、上杉鷹山である。
しかもそのとき、日本の記者団の中には上杉鷹山を知る人はいなかったという。
昭和30年代では、上杉鷹山はそれほど日本でも名前が知られていなかったのだろう。
Tさんはこのエピソードを覚えていて、僕にその話をしてくれた。
この上杉鷹山の話は、僕にとって、衝撃だった。
もっと知りたいと思った。
週末に関西に戻ってきてから、上杉鷹山の本を読んだ。
WEBで調べれば、ある程度の情報を入手することができるが、やはり書籍として出版されているものを、紙の本として読みたい。
童門冬二の“小説上杉鷹山”だ。
上杉鷹山は、もともと上杉家の人ではない。
九州の小藩である日向高鍋藩の生まれだ。
10歳のときに、上杉家藩主上杉重定の養子になる。
16歳で家督を継ぐ。
養子になるときから、優秀であったらしい。
藩の財政を立て直したことにより、江戸時代の大名のなかでも名君と言われている。
藩の守旧派ともいうべき改革反対派を抑え、改革を計画し実行したことは、高く評価されているが、僕が最も素晴らしいと思ったのは、伝国の辞という家訓である。
それは、
・国家は藩主のものではなく、先祖から子孫に伝えられるべきものである。
・人民は、国家に属しているのであり、藩主の私物ではない。
・国家人民のために藩主は、存在しているのであり、藩主のために国家人民があるのではない。
という内容だ。
今の時代では当たり前のことが書いてあるが、当時の藩主がこのような民主主義とも言える考え方を持っていたことが不思議だった。
どこでこのようなことを教育されたのか、と思って本を読んだり、入手した情報で推察したが、分からない。
おそらく養子に入る前に、そのような教えを伝えられていて、それが上杉藩に入り、改革を進めるなかで、より明確な形となったのではないか。
そして、上杉藩のなかでは明治になるまで、重要な家訓として伝承されたのだろう。
上杉伯爵邸





米沢市である。
例によって、金曜日に講演会を開催することになっていた。
珍しく前日の午後、まだ明るい時間に米沢のホテルに入った。
ちょうど、同じ頃に僕の先輩であるTさんも同じホテルに入っていた。
Tさんのことは、以前このブログでもなんどか紹介している。
僕より年上の先輩であるが、若い人には同じ目線で話しができる方だ。
Tさんとの時間はいつも楽しい。
Tさんと食事に行きましょうと声をかけると、もちろん話はすぐにまとまる。
米沢に来たのだから、折角だから米沢牛を食べようということになった。
でも二人ともそれほど夕食にお金を使うことはしたくない。
ちょうど適当な値段で米沢牛を食べることができるところがあった。
上杉伯爵邸という。
それは旧米沢藩の庭園がある屋敷をお店にしていた。
大きな座敷の部屋に通される。
目の前は、庭園だ。
食卓からの景色は贅沢である。
時間が早いせいか、他のお客さんはまだいない。
米沢牛の定番の食事を注文する。
期待とおりおいしかった。
Tさんと明日からのことを話したり、一緒にやっている活動のことを話したり、大いに盛り上がった。
食事を終えて、席を立った。
会計をするところの壁に額がある。
額の中に、有名な言葉がある。
“なせば成る、なさねば成らぬ、何事も、成らぬは人のなさるなりけり”
それを見て、Tさんは“上杉鷹山の言葉ですね”と言う。
上杉鷹山という名前は、うっすらと僕の頭の中に残っていた。
あまり詳しくは知らなかった名前だ。
ケネディ大統領が、日本の記者団から、最も尊敬する日本人は誰ですかという質問を受けた。
その答えが、上杉鷹山である。
しかもそのとき、日本の記者団の中には上杉鷹山を知る人はいなかったという。
昭和30年代では、上杉鷹山はそれほど日本でも名前が知られていなかったのだろう。
Tさんはこのエピソードを覚えていて、僕にその話をしてくれた。
この上杉鷹山の話は、僕にとって、衝撃だった。
もっと知りたいと思った。
週末に関西に戻ってきてから、上杉鷹山の本を読んだ。
WEBで調べれば、ある程度の情報を入手することができるが、やはり書籍として出版されているものを、紙の本として読みたい。
童門冬二の“小説上杉鷹山”だ。
上杉鷹山は、もともと上杉家の人ではない。
九州の小藩である日向高鍋藩の生まれだ。
10歳のときに、上杉家藩主上杉重定の養子になる。
16歳で家督を継ぐ。
養子になるときから、優秀であったらしい。
藩の財政を立て直したことにより、江戸時代の大名のなかでも名君と言われている。
藩の守旧派ともいうべき改革反対派を抑え、改革を計画し実行したことは、高く評価されているが、僕が最も素晴らしいと思ったのは、伝国の辞という家訓である。
それは、
・国家は藩主のものではなく、先祖から子孫に伝えられるべきものである。
・人民は、国家に属しているのであり、藩主の私物ではない。
・国家人民のために藩主は、存在しているのであり、藩主のために国家人民があるのではない。
という内容だ。
今の時代では当たり前のことが書いてあるが、当時の藩主がこのような民主主義とも言える考え方を持っていたことが不思議だった。
どこでこのようなことを教育されたのか、と思って本を読んだり、入手した情報で推察したが、分からない。
おそらく養子に入る前に、そのような教えを伝えられていて、それが上杉藩に入り、改革を進めるなかで、より明確な形となったのではないか。
そして、上杉藩のなかでは明治になるまで、重要な家訓として伝承されたのだろう。
上杉伯爵邸




