エピローグ
- 2015/12/09
- 00:00
2時間もののサスペンスドラマ。
日本版では、最後のシーン。犯人を追い詰め、謎解きから、犯人の自白から、ときとしてはお涙頂戴の場面。
それは、海岸の断崖絶壁の場所なんていうところが定番だ。
場所については、最近は定番以外の場所も出てきているが、2時間のなかでは、たっぷりここに時間を取っている。
日本版の場合は、出演している役者のクラスで、はじめから、こいつが犯人だろうと目星をつけやすい。
最後の30分では、ああ、やっぱりこいつが犯人か、と分かってから、またまた時間をかけて、怪しげなところをすべてクリアにして、納得するまで見せることになる。
出演者で犯人が分かってしまうというところは、さすがに作る方もプロなので、あまり名前の知られていない役者を犯人に持ってくることも出てきている。
こうなると、最後まで犯人が分からないという場合がある。
少なくとも役者から犯人を割り出すという安直な方法が採れないのだ。
それに比べ、外国物は、犯人が分かるのは、最後の最後で、見ているほうに、なんでやという疑問がでても、ゆっくり考える時間を与えない。
それが意外性があって面白い場合もあるが、そんな話は聞いていないから、推理することができないということもある。
犯人が、殺された被害者の子供で、遠い昔にインドで離ればなれになっていたなんて、見ている方は初耳ということがある。
そこまで仮説を立てて推理をするのが、ほんまもんや、と言われてしまえば、それまでだが、名探偵が犯人を最後の5分で割り出し、謎解きをするというのも、結構平気でやっているのだ。
そうなると、事件解決の後の余韻に浸っているような時間もない。日本版だと、事件解決後の、なんとなく温かい雰囲気とか、しんみりするようなシーンがあって、そこにテーマソングが流れてくる。その歌が妙にしっくりと耳に心地よいということがある。
そんな余韻に浸ることは外国物ではないのだ。
名探偵モンクだと、ましてや1時間なので、逆に犯人を早い内に、決めてしまう。
それもかなり強引な推理で決めてしまって、証拠とか、どうやって犯人を追い詰めるかということは、後付けになることもある。
1時間という制約がある分、すべてのシーンが、何らかの意味を持っているのだ。
無駄がないのだ。
日本版か外国物か、どちらが好きということはないけど、そのときの気分によって、見たいものが変わってくるね。

日本版では、最後のシーン。犯人を追い詰め、謎解きから、犯人の自白から、ときとしてはお涙頂戴の場面。
それは、海岸の断崖絶壁の場所なんていうところが定番だ。
場所については、最近は定番以外の場所も出てきているが、2時間のなかでは、たっぷりここに時間を取っている。
日本版の場合は、出演している役者のクラスで、はじめから、こいつが犯人だろうと目星をつけやすい。
最後の30分では、ああ、やっぱりこいつが犯人か、と分かってから、またまた時間をかけて、怪しげなところをすべてクリアにして、納得するまで見せることになる。
出演者で犯人が分かってしまうというところは、さすがに作る方もプロなので、あまり名前の知られていない役者を犯人に持ってくることも出てきている。
こうなると、最後まで犯人が分からないという場合がある。
少なくとも役者から犯人を割り出すという安直な方法が採れないのだ。
それに比べ、外国物は、犯人が分かるのは、最後の最後で、見ているほうに、なんでやという疑問がでても、ゆっくり考える時間を与えない。
それが意外性があって面白い場合もあるが、そんな話は聞いていないから、推理することができないということもある。
犯人が、殺された被害者の子供で、遠い昔にインドで離ればなれになっていたなんて、見ている方は初耳ということがある。
そこまで仮説を立てて推理をするのが、ほんまもんや、と言われてしまえば、それまでだが、名探偵が犯人を最後の5分で割り出し、謎解きをするというのも、結構平気でやっているのだ。
そうなると、事件解決の後の余韻に浸っているような時間もない。日本版だと、事件解決後の、なんとなく温かい雰囲気とか、しんみりするようなシーンがあって、そこにテーマソングが流れてくる。その歌が妙にしっくりと耳に心地よいということがある。
そんな余韻に浸ることは外国物ではないのだ。
名探偵モンクだと、ましてや1時間なので、逆に犯人を早い内に、決めてしまう。
それもかなり強引な推理で決めてしまって、証拠とか、どうやって犯人を追い詰めるかということは、後付けになることもある。
1時間という制約がある分、すべてのシーンが、何らかの意味を持っているのだ。
無駄がないのだ。
日本版か外国物か、どちらが好きということはないけど、そのときの気分によって、見たいものが変わってくるね。
