叱られること
- 2016/01/12
- 00:00
父に叱られたことは、ほとんど記憶にないのだが、唯一覚えていることがある。
小学校の高学年か、中学のころである。
年については、はっきりとした記憶がない。
大晦日のことだ。
父と母が梅田に買い物に行って帰ってきた。
年末の街に出かけて、買い物をするというのが、父は好きだったようだ。
それが長年の海外生活の影響だったのかもしれない。
父は、銚子とおちょこを買ってきた。
それは丁寧にひとつひとつが包装され、箱に詰められていた。
僕は家で帰りを待っていたのだが、買ってきたものを見て、それはお土産というわけではなかったのだが、うれしくなって、勝手に包装紙をほどき、箱を開けた。
箱の中から、銚子やおちょこを包んでいる紙をはずして、中からひとつずつ取り出していった。
ところが、小さなおちょこを包装していた紙を乱雑に開いたせいで、おちょこが手元から滑り落ちて、床に落ちたのだ。
おちょこは、あっけなく床の上でかけてしまった。
まっさらのおちょこは、一度も使うことなく、その用途を失ったのだ。
もちろんおちょこはいくつか入っていたので、買ってきたものが完全に使えなくなったわけではない。
おちょこのひとつをだめにしたのは、明らかにおっちょこちょいの僕のミスである。
父はそれを見て、もっと注意してあけないとだめだ、と強い口調で僕を叱った。
それは当然のことだ。
もっと激しく怒ってもよいくらいだった。
僕は申し訳なく、ごめんなさいと言うしかなかった。
時間を戻せるなら、1分前に戻したかった。
父は、一言それだけ言うと、それ以上なにも言うことはなかった。
父の不機嫌な表情は、その晩は続いていたように思うが、それは僕のなかの気持が、父の表情をそう見たのかもしれない。
僕が他人を叱るときに、長い時間叱ることができないのは、もしかすると、このときのことがこころの中に残っているせいかもしれない。
叱ることにパワーを使うよりも、この次のことを考えるほうが、良い結果になることは間違いないだろう。
そんな思いが、いつも僕の頭のなかにめぐってくる。
ミスをしたり、間違ったときは、ごめんなさいと,一言言えば、たいていの場合、僕の気持ちは大丈夫だよ、っていう方向に切り替わってしまう。
間違いの後、この次にどうするか。そのほうがよほど大切なことに違いない。

小学校の高学年か、中学のころである。
年については、はっきりとした記憶がない。
大晦日のことだ。
父と母が梅田に買い物に行って帰ってきた。
年末の街に出かけて、買い物をするというのが、父は好きだったようだ。
それが長年の海外生活の影響だったのかもしれない。
父は、銚子とおちょこを買ってきた。
それは丁寧にひとつひとつが包装され、箱に詰められていた。
僕は家で帰りを待っていたのだが、買ってきたものを見て、それはお土産というわけではなかったのだが、うれしくなって、勝手に包装紙をほどき、箱を開けた。
箱の中から、銚子やおちょこを包んでいる紙をはずして、中からひとつずつ取り出していった。
ところが、小さなおちょこを包装していた紙を乱雑に開いたせいで、おちょこが手元から滑り落ちて、床に落ちたのだ。
おちょこは、あっけなく床の上でかけてしまった。
まっさらのおちょこは、一度も使うことなく、その用途を失ったのだ。
もちろんおちょこはいくつか入っていたので、買ってきたものが完全に使えなくなったわけではない。
おちょこのひとつをだめにしたのは、明らかにおっちょこちょいの僕のミスである。
父はそれを見て、もっと注意してあけないとだめだ、と強い口調で僕を叱った。
それは当然のことだ。
もっと激しく怒ってもよいくらいだった。
僕は申し訳なく、ごめんなさいと言うしかなかった。
時間を戻せるなら、1分前に戻したかった。
父は、一言それだけ言うと、それ以上なにも言うことはなかった。
父の不機嫌な表情は、その晩は続いていたように思うが、それは僕のなかの気持が、父の表情をそう見たのかもしれない。
僕が他人を叱るときに、長い時間叱ることができないのは、もしかすると、このときのことがこころの中に残っているせいかもしれない。
叱ることにパワーを使うよりも、この次のことを考えるほうが、良い結果になることは間違いないだろう。
そんな思いが、いつも僕の頭のなかにめぐってくる。
ミスをしたり、間違ったときは、ごめんなさいと,一言言えば、たいていの場合、僕の気持ちは大丈夫だよ、っていう方向に切り替わってしまう。
間違いの後、この次にどうするか。そのほうがよほど大切なことに違いない。
