医学部の先生
- 2014/12/29
- 00:22
大学は完全に階級社会であり、研究室では教授が一番偉いということになっている。
ただ、その度合いは、学部によりかなり差があり、最も役職による差がはっきりしているのが医学部だ。
工学部では、30代後半であれば、准教授になっている、優秀な先生であれば、めぐりあわせもあるだろうが、教授になっている先生もいる。その先生と同じ年代の先生が、医学部にいくと、助手という場合は珍しくない。それだけ教授のすごさが医学部では他の学部とは異なる。
助手から准教授、教授というのがキャリアパスだ。
以前、IT系の仕事で医療の場にいくことを専門にしているときがあった。
そのときは、新しいビジネスの営業という立場で、その地区に新しくできた研究所に営業活動をすることになっていた。
アメリカから非常に優秀な技術者を呼んで、営業活動の支援をしてもらう場面があった。
彼は、10代で学位を取り、20代の前半で自ら医療系のベンチャー企業を設立していた。その分野でのビジネスがこれから拡大することを見込んで、IT系の会社にヘッドハンティングされ、自らの会社を売却して、転職してきたのである。
契約金を聞いて驚いた記憶がある。
そのような優秀なメンバーが来ているので、どうしてもそれなりの人をお客様の中から選び、打ち合わせの場を作らないといけない。
そこで彼に会わせようと、選んだのがS先生である。
S先生は、国立大学の医学部の教授でありながら、新しくできた研究所のグループリーダーという重要な役職についていた。その年で医学部の教授というのも、超例外的なことであり、如何に優秀な先生だったかということを、その年齢で医学部教授ということが如実に示している。
そういうS先生にどうやってお会いするか。
WEBで調べてみる。
大学入学以降の履歴は、分かった。
高校はどこか分からなかったが,どうやら関西のご出身である。
関西人のノリであってくれるとは限らないが、電話をするか、メールをするか、いずれかである。
たまたまその研究室に常駐しているIT系のエンジニアに知り合いがいた。彼は、気さくな人間で、いつも会ったときは、冗談を言いあえる仲であった。
彼にS先生の話をして、訪問できる候補日を伝えて、スケジュールが空いているかどうか、調べて欲しいという依頼をした。
スケジュールの空き具合で、電話しようと決めていた。
彼からの返事がすぐにメールできた。
アポをいれておきましたよ、というではないか。
おっ、やはりノリのいい関西人なのだ。
すぐに会ってくれるとは。
その訪問日になった。
アメリカから来ている若くて優秀な技術者であり、元ベンチャー会社の経営者を始め、同じ部門のメンバーと合計5人で研究所を訪ねた。
玄関で行き先をいい、入門手続きをしてS先生の研究室に向かっていく。
S先生の研究室の部屋をノックして入室する。
入室したところには、大きな楕円形のテーブルが置いてあり、横の机で秘書らしい女性が3人、手を動かしている。
その中の代表のような年輩の女性が、奧の部屋に入っていき、すぐに出てきた。
「今日の責任者の方はどなたですか。。。。
先生が、その方とお会いになられます」と言う。
うーん、なにかいつもの流れと違う。
「わたしですが」と言うと、奥の部屋に案内される。
初めて、S先生と面と向かってお会いする。
名刺をお渡しする。
「今日はどういう目的で来られたのですか」と、難しい顔をして、切り出される。
「私の立場として、、、、」と言われる。
何を言われたのか、よく覚えていない。
目的によっては、会わないよ、ということを言外に言われている。
今日のアポは、仲介者である気のいいエンジニアに取ってもらい、その後、こちらからは、なにも連絡をとっていなかった。
今、思えば、適切でなかった。
あわてて、アメリカから専門家を連れてきたので、きっと先生のお役に立てる情報をご提供できるものと思いまして、お時間をいただきました、、、と説明する。
駄目だと言われれば、このまま帰るしかないと、腹をくくる。
S先生は、わかりました、10分だけ会いましょうと言われて、みんなが待っている入り口の部屋に行かれる。
ほっと一息だ。
アメリカからきた若い優秀な専門家は、S先生とテーブルを挟んで話し始める。
二人だけの話が始まる。
優秀な専門家は、なにも資料を出さない。
もちろん自分のPCを使ってプレゼンをすることもない。
ひたすら二人の会話が続く。
もちろん英語だ。
内容は難しくて、正直分からない。
ただ、お互いに話しが盛り上がってきていることは、分かる。
10分、、、
20分、、、
30分、、、
とうとう40分くらい話していたと思う。
ふたりの話しが終わる。
その間、誰もその会話には、入っていくことがない。
二人が握手をして、微笑む。
全員、部屋を出る。
どっと肩の荷がおりる。
あらためて、S先生のすごさを認識し、またアメリカから来た若い優秀なスペシャリストのすごさを認識した時間であった。
そのアメリカ人は、そのときは20代後半であったが、出身は中近東だった。
中近東の人は、見た目では年が分からない。
彼も、年齢を聞いていないと、40代と言ってもとおる風貌だった。
そのときは大阪に5日間ほど滞在した。
毎晩のように食事に誘った。
とことんやるのが当時の僕の主義だった。
4日目の夜は、食事に行こうと言ったら、さすがに、今日はホテルに帰りますという返事だった。
彼は、いつも世界中を飛び回っていたので、住所を書くときには、シカゴの自宅の住所を書かずに、4Cと書くと言っていた。それは飛行機の座席の番号である。
それだけ頻繁に飛行機で移動しているということだ。
日本を離れてからも、ときどき僕の携帯に見慣れぬ着信番号が表示されることがあった。
彼は、訪問した研究所のビジネスのその後がどうだったのかを聞きたくて、電話をかけてきたのである。
技術者といえども、売れてなんぼの世界。それはどこでも共通である。
あれは10年以上前のことだった。
そしてS先生。優秀なS先生は今はおられない。
ある事件があり、自ら命を絶たれたのだ。
非常に優秀な先生だったが、優秀な分、耐えきれないところがあったのだろう。
精神的にもろいところがあったのかもしれない。
日本にとっても、世界にとっても、その分野では大きな損失だったと思う。
ご冥福をお祈りする。
会合のあったビルを臨む。

ただ、その度合いは、学部によりかなり差があり、最も役職による差がはっきりしているのが医学部だ。
工学部では、30代後半であれば、准教授になっている、優秀な先生であれば、めぐりあわせもあるだろうが、教授になっている先生もいる。その先生と同じ年代の先生が、医学部にいくと、助手という場合は珍しくない。それだけ教授のすごさが医学部では他の学部とは異なる。
助手から准教授、教授というのがキャリアパスだ。
以前、IT系の仕事で医療の場にいくことを専門にしているときがあった。
そのときは、新しいビジネスの営業という立場で、その地区に新しくできた研究所に営業活動をすることになっていた。
アメリカから非常に優秀な技術者を呼んで、営業活動の支援をしてもらう場面があった。
彼は、10代で学位を取り、20代の前半で自ら医療系のベンチャー企業を設立していた。その分野でのビジネスがこれから拡大することを見込んで、IT系の会社にヘッドハンティングされ、自らの会社を売却して、転職してきたのである。
契約金を聞いて驚いた記憶がある。
そのような優秀なメンバーが来ているので、どうしてもそれなりの人をお客様の中から選び、打ち合わせの場を作らないといけない。
そこで彼に会わせようと、選んだのがS先生である。
S先生は、国立大学の医学部の教授でありながら、新しくできた研究所のグループリーダーという重要な役職についていた。その年で医学部の教授というのも、超例外的なことであり、如何に優秀な先生だったかということを、その年齢で医学部教授ということが如実に示している。
そういうS先生にどうやってお会いするか。
WEBで調べてみる。
大学入学以降の履歴は、分かった。
高校はどこか分からなかったが,どうやら関西のご出身である。
関西人のノリであってくれるとは限らないが、電話をするか、メールをするか、いずれかである。
たまたまその研究室に常駐しているIT系のエンジニアに知り合いがいた。彼は、気さくな人間で、いつも会ったときは、冗談を言いあえる仲であった。
彼にS先生の話をして、訪問できる候補日を伝えて、スケジュールが空いているかどうか、調べて欲しいという依頼をした。
スケジュールの空き具合で、電話しようと決めていた。
彼からの返事がすぐにメールできた。
アポをいれておきましたよ、というではないか。
おっ、やはりノリのいい関西人なのだ。
すぐに会ってくれるとは。
その訪問日になった。
アメリカから来ている若くて優秀な技術者であり、元ベンチャー会社の経営者を始め、同じ部門のメンバーと合計5人で研究所を訪ねた。
玄関で行き先をいい、入門手続きをしてS先生の研究室に向かっていく。
S先生の研究室の部屋をノックして入室する。
入室したところには、大きな楕円形のテーブルが置いてあり、横の机で秘書らしい女性が3人、手を動かしている。
その中の代表のような年輩の女性が、奧の部屋に入っていき、すぐに出てきた。
「今日の責任者の方はどなたですか。。。。
先生が、その方とお会いになられます」と言う。
うーん、なにかいつもの流れと違う。
「わたしですが」と言うと、奥の部屋に案内される。
初めて、S先生と面と向かってお会いする。
名刺をお渡しする。
「今日はどういう目的で来られたのですか」と、難しい顔をして、切り出される。
「私の立場として、、、、」と言われる。
何を言われたのか、よく覚えていない。
目的によっては、会わないよ、ということを言外に言われている。
今日のアポは、仲介者である気のいいエンジニアに取ってもらい、その後、こちらからは、なにも連絡をとっていなかった。
今、思えば、適切でなかった。
あわてて、アメリカから専門家を連れてきたので、きっと先生のお役に立てる情報をご提供できるものと思いまして、お時間をいただきました、、、と説明する。
駄目だと言われれば、このまま帰るしかないと、腹をくくる。
S先生は、わかりました、10分だけ会いましょうと言われて、みんなが待っている入り口の部屋に行かれる。
ほっと一息だ。
アメリカからきた若い優秀な専門家は、S先生とテーブルを挟んで話し始める。
二人だけの話が始まる。
優秀な専門家は、なにも資料を出さない。
もちろん自分のPCを使ってプレゼンをすることもない。
ひたすら二人の会話が続く。
もちろん英語だ。
内容は難しくて、正直分からない。
ただ、お互いに話しが盛り上がってきていることは、分かる。
10分、、、
20分、、、
30分、、、
とうとう40分くらい話していたと思う。
ふたりの話しが終わる。
その間、誰もその会話には、入っていくことがない。
二人が握手をして、微笑む。
全員、部屋を出る。
どっと肩の荷がおりる。
あらためて、S先生のすごさを認識し、またアメリカから来た若い優秀なスペシャリストのすごさを認識した時間であった。
そのアメリカ人は、そのときは20代後半であったが、出身は中近東だった。
中近東の人は、見た目では年が分からない。
彼も、年齢を聞いていないと、40代と言ってもとおる風貌だった。
そのときは大阪に5日間ほど滞在した。
毎晩のように食事に誘った。
とことんやるのが当時の僕の主義だった。
4日目の夜は、食事に行こうと言ったら、さすがに、今日はホテルに帰りますという返事だった。
彼は、いつも世界中を飛び回っていたので、住所を書くときには、シカゴの自宅の住所を書かずに、4Cと書くと言っていた。それは飛行機の座席の番号である。
それだけ頻繁に飛行機で移動しているということだ。
日本を離れてからも、ときどき僕の携帯に見慣れぬ着信番号が表示されることがあった。
彼は、訪問した研究所のビジネスのその後がどうだったのかを聞きたくて、電話をかけてきたのである。
技術者といえども、売れてなんぼの世界。それはどこでも共通である。
あれは10年以上前のことだった。
そしてS先生。優秀なS先生は今はおられない。
ある事件があり、自ら命を絶たれたのだ。
非常に優秀な先生だったが、優秀な分、耐えきれないところがあったのだろう。
精神的にもろいところがあったのかもしれない。
日本にとっても、世界にとっても、その分野では大きな損失だったと思う。
ご冥福をお祈りする。
会合のあったビルを臨む。
