ら抜き言葉
- 2016/02/10
- 00:00
ら抜き言葉というのを初めて聞いたのは、島田荘司さんの推理小説だ。
「ら抜き言葉殺人事件」という題名だ。
ら抜き言葉に、異常な反応を示す女性がいる。
その女性が殺人をする。
と記憶していたが、実際のストーリーは全くそうではなかった。
もう一度読み直さなければ。
その本を読んだときの印象が、ストーリーよりも“ら抜き言葉”という言葉の存在することを知ったことの方が、僕のなかでは強烈だったのだ。
これを知ってからは、僕の耳の中に入ってくる話のなかに、ら抜き言葉と思われるときは、それに反応してしまう。
あっ、これはら抜き言葉だって。
特にそれがはっきりと分かるのはテレビだ。
テレビのニュースで、インタビューに答えている人がいる。
その人は日本語を話しているので通訳は不要なわけだが、話している言葉が音声としては、そのまま流れるのだが、それがら抜き言葉の場合は、“ら“を入れた正しい文章に修正されてテロップとして表示されるのだ。
「いつもそれは見れるのです」と言っているときは、画面には
「いつもそれは見られるのです」とテロップが流れる。
それが一旦気になりだすと、結構ら抜き言葉が世の中に広まっていることがよく分かる。
でもこれだけら抜き言葉が広まると、それが支配的になり、いずれ間違いではなく、標準になっていくのかもしれない。
僕自身は正しい日本語を使った方がいいと言うくらいの気持ちだが、やはり正しい日本語がだんだんと壊れていくのは、気持がいいものではない。
見れる、食べれる、出れる、というあたりは、明らかに“ら”が抜けているが、ら抜き言葉を判定する方法もあるという事を知った。
その方法のひとつは、“よう”が付く言葉は“ら”も付くと見分ける方法だ。
”見る“は、”見よう“となるので、”見られる“となる。
“始める”は“始めよう”となるので、”始められる“となる。
もうひとつの方法は、“ろう”をつけられるかどうかで見分ける方法だ。
喋る=>喋ろう
この場合は、“ら”を入れることはできない。
喋れる、でよいことになる。
でも一方で、ら抜き言葉を擁護する意見、考え方もある。
地域よっては、ら抜き言葉を使っていたところもあって、ら抜き言葉が必ずしも悪い日本語ということではないのだ。
また、受け身や可能であるということを明確にするために、ら抜き言葉を使う方がよいという指摘もある。
ら抜き言葉にすれば、明確に可能であることを伝えられる。
例えば、投げれるというと、これは投げることが可能であるという意味になる。
これに”ら”をいれると、投げられるとなって、受け身なのか、可能なのか、不明だ。
両方の意味を持つ。
まぁ、いろいろな意見はあるが、現時点では、ら抜き言葉は避けたほういいのだろうね。

「ら抜き言葉殺人事件」という題名だ。
ら抜き言葉に、異常な反応を示す女性がいる。
その女性が殺人をする。
と記憶していたが、実際のストーリーは全くそうではなかった。
もう一度読み直さなければ。
その本を読んだときの印象が、ストーリーよりも“ら抜き言葉”という言葉の存在することを知ったことの方が、僕のなかでは強烈だったのだ。
これを知ってからは、僕の耳の中に入ってくる話のなかに、ら抜き言葉と思われるときは、それに反応してしまう。
あっ、これはら抜き言葉だって。
特にそれがはっきりと分かるのはテレビだ。
テレビのニュースで、インタビューに答えている人がいる。
その人は日本語を話しているので通訳は不要なわけだが、話している言葉が音声としては、そのまま流れるのだが、それがら抜き言葉の場合は、“ら“を入れた正しい文章に修正されてテロップとして表示されるのだ。
「いつもそれは見れるのです」と言っているときは、画面には
「いつもそれは見られるのです」とテロップが流れる。
それが一旦気になりだすと、結構ら抜き言葉が世の中に広まっていることがよく分かる。
でもこれだけら抜き言葉が広まると、それが支配的になり、いずれ間違いではなく、標準になっていくのかもしれない。
僕自身は正しい日本語を使った方がいいと言うくらいの気持ちだが、やはり正しい日本語がだんだんと壊れていくのは、気持がいいものではない。
見れる、食べれる、出れる、というあたりは、明らかに“ら”が抜けているが、ら抜き言葉を判定する方法もあるという事を知った。
その方法のひとつは、“よう”が付く言葉は“ら”も付くと見分ける方法だ。
”見る“は、”見よう“となるので、”見られる“となる。
“始める”は“始めよう”となるので、”始められる“となる。
もうひとつの方法は、“ろう”をつけられるかどうかで見分ける方法だ。
喋る=>喋ろう
この場合は、“ら”を入れることはできない。
喋れる、でよいことになる。
でも一方で、ら抜き言葉を擁護する意見、考え方もある。
地域よっては、ら抜き言葉を使っていたところもあって、ら抜き言葉が必ずしも悪い日本語ということではないのだ。
また、受け身や可能であるということを明確にするために、ら抜き言葉を使う方がよいという指摘もある。
ら抜き言葉にすれば、明確に可能であることを伝えられる。
例えば、投げれるというと、これは投げることが可能であるという意味になる。
これに”ら”をいれると、投げられるとなって、受け身なのか、可能なのか、不明だ。
両方の意味を持つ。
まぁ、いろいろな意見はあるが、現時点では、ら抜き言葉は避けたほういいのだろうね。
