柳田國男さんのこと(1)
- 2016/11/14
- 00:00
東北へ行くと、その土地の歴史上の人物や、活躍した人たちの記念館をめぐることがある。
以前岩手に行ったときに、遠野まで足を伸ばした。
そこで出会ったのが柳田國男さんである。
戦前は農務官僚や枢密顧問官を歴任していた人であるが、民俗学の父と言われている。
遠野に行くまでは、民俗学というイメージが強かったので、東北の出身の方だと思っていた。ところが、遠野で知ったのだが、柳田國男さんは、なんと兵庫県の出身である。
それならば、兵庫県にきっと記念館があるだろうと探してみた。
当然のことであるが、やはり記念館はあった。
柳田國男さんは兵庫県の福崎町の出身で、記念館は、福崎町立柳田國男・松岡家記念館という。
僕が初めてそこを訪ねたのは、5年以上前のことであるが、WEBにはその年の4月から福崎町立柳田國男・松岡家記念館として運営される、と書いてある。
それまでは、どういう形でこの記念館が運営されてきたのかは、分からない。
民俗学を確立させた人であり、その業績は高く評価され、その成果物である数多くの書籍を大事に扱うべきであるが、どうも日本人はこのような地道な学究には、光を当てることが少ないのだろうか。
関西に戻ってから、行く機会を作ろうと思い、時間のあるときに、中国道を走った。。
平日の昼間だったので、道はすいている。宝塚インターから高速に入ると、1時間もかからない。
福崎インターを出ると、目的地の柳田國男記念館までは10分程度である。
車を駐車場に止める。
公園のような形で一画が仕切られている。
緩い坂道を登っていく。
看板がある。西側には、柳田國男とその兄弟の生家、奥には、神崎郡歴史民俗資料館、正面には、柳田國男、松岡家顕彰記念館と書いてある。
ここに来るまでは、柳田國男さんは、名前を知っているだけだった。
柳田國男さんは8人の兄弟がいる。
3人は早世している。
柳田國男さんは,早世された3人を除くと、上から3番目である。他の4人の兄弟もいろいろな分野で足跡を残されている。
優秀な血筋だったのだ。
正面の柳田國男・松岡家顕彰記念館から始めて、奥の神崎郡歴史民俗資料館に入り、最後に生家をまわる。
これだけの業績を残した人の記念館としては、つつましやかである。
町の予算だけでやるレベルのものではないと思う。
少ない予算のなかで懸命に維持されていることはよくわかるのだが、日本の歴史上に功績を残された方である。
国から生前に勲章をいくつか授与され、逝去されたときにも、勲章が授与されている。
だが、それだけで終わってしまっていることは寂しい。
民俗学における評価については、批判する意見もあるようで、そのようなことが影響をあたえているのかもしれない。
生家は、日本一小さい家、と自ら言われていた。
わらぶきの家で、確かに大きな家ではないが、日本一小さいとは思えない。
ただ柳田國男さんが民俗学へ進みだす原点となった場所らしい。
この一画を後にして、田んぼの中の道を進んで、古い街道筋に向かって歩いていく。
(つづく)
駐車場を出て歩き始める。

ゆるやかな坂を登っていく。

看板に建物の名前が記してある。

さらに登っていく。
柳田國男・松岡家記念館の正面に着く。

記念館の左手奥には、神崎郡歴史民俗資料館。

入口には、趣の深い民族資料館の表示板。

福崎町で出土した組合せ家形石棺。珍しい形式とある。

神崎郡歴史民俗資料館は、旧の神埼郡役所である。

元来た道を戻っていく。
この道が、このあたりでは、一番好きだ。
木に囲まれて、静かだ。
訪れたのは夏であるが、暑い日差しは木々が守ってくれる。

「日本一小さい家」と言っていた生家に向かう。

こうやって見ると、雰囲気のある生家。
確かに現代では、このような家に住んでいる人はいないだろう。



以前岩手に行ったときに、遠野まで足を伸ばした。
そこで出会ったのが柳田國男さんである。
戦前は農務官僚や枢密顧問官を歴任していた人であるが、民俗学の父と言われている。
遠野に行くまでは、民俗学というイメージが強かったので、東北の出身の方だと思っていた。ところが、遠野で知ったのだが、柳田國男さんは、なんと兵庫県の出身である。
それならば、兵庫県にきっと記念館があるだろうと探してみた。
当然のことであるが、やはり記念館はあった。
柳田國男さんは兵庫県の福崎町の出身で、記念館は、福崎町立柳田國男・松岡家記念館という。
僕が初めてそこを訪ねたのは、5年以上前のことであるが、WEBにはその年の4月から福崎町立柳田國男・松岡家記念館として運営される、と書いてある。
それまでは、どういう形でこの記念館が運営されてきたのかは、分からない。
民俗学を確立させた人であり、その業績は高く評価され、その成果物である数多くの書籍を大事に扱うべきであるが、どうも日本人はこのような地道な学究には、光を当てることが少ないのだろうか。
関西に戻ってから、行く機会を作ろうと思い、時間のあるときに、中国道を走った。。
平日の昼間だったので、道はすいている。宝塚インターから高速に入ると、1時間もかからない。
福崎インターを出ると、目的地の柳田國男記念館までは10分程度である。
車を駐車場に止める。
公園のような形で一画が仕切られている。
緩い坂道を登っていく。
看板がある。西側には、柳田國男とその兄弟の生家、奥には、神崎郡歴史民俗資料館、正面には、柳田國男、松岡家顕彰記念館と書いてある。
ここに来るまでは、柳田國男さんは、名前を知っているだけだった。
柳田國男さんは8人の兄弟がいる。
3人は早世している。
柳田國男さんは,早世された3人を除くと、上から3番目である。他の4人の兄弟もいろいろな分野で足跡を残されている。
優秀な血筋だったのだ。
正面の柳田國男・松岡家顕彰記念館から始めて、奥の神崎郡歴史民俗資料館に入り、最後に生家をまわる。
これだけの業績を残した人の記念館としては、つつましやかである。
町の予算だけでやるレベルのものではないと思う。
少ない予算のなかで懸命に維持されていることはよくわかるのだが、日本の歴史上に功績を残された方である。
国から生前に勲章をいくつか授与され、逝去されたときにも、勲章が授与されている。
だが、それだけで終わってしまっていることは寂しい。
民俗学における評価については、批判する意見もあるようで、そのようなことが影響をあたえているのかもしれない。
生家は、日本一小さい家、と自ら言われていた。
わらぶきの家で、確かに大きな家ではないが、日本一小さいとは思えない。
ただ柳田國男さんが民俗学へ進みだす原点となった場所らしい。
この一画を後にして、田んぼの中の道を進んで、古い街道筋に向かって歩いていく。
(つづく)
駐車場を出て歩き始める。

ゆるやかな坂を登っていく。

看板に建物の名前が記してある。

さらに登っていく。
柳田國男・松岡家記念館の正面に着く。

記念館の左手奥には、神崎郡歴史民俗資料館。

入口には、趣の深い民族資料館の表示板。

福崎町で出土した組合せ家形石棺。珍しい形式とある。

神崎郡歴史民俗資料館は、旧の神埼郡役所である。

元来た道を戻っていく。
この道が、このあたりでは、一番好きだ。
木に囲まれて、静かだ。
訪れたのは夏であるが、暑い日差しは木々が守ってくれる。

「日本一小さい家」と言っていた生家に向かう。

こうやって見ると、雰囲気のある生家。
確かに現代では、このような家に住んでいる人はいないだろう。


