吉田寅次郎
- 2015/03/06
- 00:00
吉田寅次郎とは吉田松陰のことだ。
学校で習う教科書には、吉田寅次郎とは書いていない。僕自身は、日本史を選択しなかったので、日本の歴史の知識がほとんどない。
このように書くのもおかしな話しだが、入試の為の勉強を優先させると、そうなってしまう。
と言って,選択した世界史をどれだけ知っているかというと、怪しいもので、せいぜい受験勉強用に学習した範囲である。
高校時代の世界史については、今でも覚えているエピソードがいくつかあり、それなりに意味があった。それは、単なる知識ということではなく、別の意味で教えられることがあった。
そういう日本史の知識の中で、僕のなかの吉田松陰は、吉田寅次郎ではなかった。
寅次郎と言えば、渥美清さんの車寅次郎、フーテンの寅さんが真っ先に思い浮かぶ。
司馬遼太郎の本を全部読んでやろうと思い立ったときがあり、実際それはまだ完成していないのだが、「世に棲む日日」を読んで、吉田松陰が吉田寅次郎であることを知った。
幕末の日本では、藩を越えて行き来するということは、外国にいくようなものだと思うが、寅次郎は、20歳のころに九州へ行き、その後、江戸に出る。
そして、東北への旅を計画し、藩の通行手形が出る前に、東北へ出発してしまう。
禁を犯すのである。脱藩してでも、罪に問われても構わないという、この意欲。
水戸から会津、秋田、津軽とまわる。
長い旅である。
無許可での旅であるので、当然のことながら、江戸に帰ってから捕らえられてしまう。
全国をまわったわけではないが、遠い地へも、新しいものを見てやろう、という意欲の強さで行ってしまう。一度考えたら、止まらないというところに、車寅次郎に通じるところを感じた。
もちろん、その志の高さは、全く違う両者であるが、きっと車寅次郎の生みの親である山田洋次監督は、吉田寅次郎をイメージしたところもあったのではないかと、勝手に思っている。
こんな馬鹿げたことを山田洋次監督に質問をする機会は、来るわけがなく、いつまでも心の中にしまっていた。
そんなことを考えて数年経った頃に、あるセミナーの講演に、山田洋次監督に来て頂くことがあった。
会場がややへんぴなところにあり、山田洋次監督を確実に、新幹線の駅から車で会場までエスコートする必要がでてきた。
その役割を僕がもらえれば、長い車のなかの移動で、聞くことができる。
ところが僕の部署は、そのセミナーを主催している部門の隣であったが、そのようなエスコートが必要だという話しは、セミナーの後で聞いたのである。
そんなにおいしい話しが、うまく来るわけがないと言えば、そうなのだが、もっと寅さん好きをアッピールしておけば、チャンスが来ていたかもしれないのだ。
実際、僕が寅さん好きで、寅さんにまつわる話をうれしそうにしていると、そのセミナーの主催部門で山田洋次監督をエスコートした本人が、「それだったら、私の役割をやってもらえばよかったですね」と言われたくらいだ。
次の機会、それはないかもしれないが、そのときは、お聞きしてみたい。
一笑にふされるだろうが。

学校で習う教科書には、吉田寅次郎とは書いていない。僕自身は、日本史を選択しなかったので、日本の歴史の知識がほとんどない。
このように書くのもおかしな話しだが、入試の為の勉強を優先させると、そうなってしまう。
と言って,選択した世界史をどれだけ知っているかというと、怪しいもので、せいぜい受験勉強用に学習した範囲である。
高校時代の世界史については、今でも覚えているエピソードがいくつかあり、それなりに意味があった。それは、単なる知識ということではなく、別の意味で教えられることがあった。
そういう日本史の知識の中で、僕のなかの吉田松陰は、吉田寅次郎ではなかった。
寅次郎と言えば、渥美清さんの車寅次郎、フーテンの寅さんが真っ先に思い浮かぶ。
司馬遼太郎の本を全部読んでやろうと思い立ったときがあり、実際それはまだ完成していないのだが、「世に棲む日日」を読んで、吉田松陰が吉田寅次郎であることを知った。
幕末の日本では、藩を越えて行き来するということは、外国にいくようなものだと思うが、寅次郎は、20歳のころに九州へ行き、その後、江戸に出る。
そして、東北への旅を計画し、藩の通行手形が出る前に、東北へ出発してしまう。
禁を犯すのである。脱藩してでも、罪に問われても構わないという、この意欲。
水戸から会津、秋田、津軽とまわる。
長い旅である。
無許可での旅であるので、当然のことながら、江戸に帰ってから捕らえられてしまう。
全国をまわったわけではないが、遠い地へも、新しいものを見てやろう、という意欲の強さで行ってしまう。一度考えたら、止まらないというところに、車寅次郎に通じるところを感じた。
もちろん、その志の高さは、全く違う両者であるが、きっと車寅次郎の生みの親である山田洋次監督は、吉田寅次郎をイメージしたところもあったのではないかと、勝手に思っている。
こんな馬鹿げたことを山田洋次監督に質問をする機会は、来るわけがなく、いつまでも心の中にしまっていた。
そんなことを考えて数年経った頃に、あるセミナーの講演に、山田洋次監督に来て頂くことがあった。
会場がややへんぴなところにあり、山田洋次監督を確実に、新幹線の駅から車で会場までエスコートする必要がでてきた。
その役割を僕がもらえれば、長い車のなかの移動で、聞くことができる。
ところが僕の部署は、そのセミナーを主催している部門の隣であったが、そのようなエスコートが必要だという話しは、セミナーの後で聞いたのである。
そんなにおいしい話しが、うまく来るわけがないと言えば、そうなのだが、もっと寅さん好きをアッピールしておけば、チャンスが来ていたかもしれないのだ。
実際、僕が寅さん好きで、寅さんにまつわる話をうれしそうにしていると、そのセミナーの主催部門で山田洋次監督をエスコートした本人が、「それだったら、私の役割をやってもらえばよかったですね」と言われたくらいだ。
次の機会、それはないかもしれないが、そのときは、お聞きしてみたい。
一笑にふされるだろうが。
