国語のY先生
- 2015/03/25
- 00:00
中学、高校の6年間、国語の先生は、Y先生である。
初めて授業を受けたのは中学1年のとき。Y先生は、ちょうど先生として脂の乗ってくるころだった。
国語の先生は、6年間同じ学年を持って上がる。
中学1年で出会った先生とは6年間一緒に過ごすことになる。
相性の良い先生もあれば、悪い先生というのも当然ある。
相性の悪い先生に巡り会った場合は、最悪であるが、中学1年というのは、まだまだどうにでもなる時期だ。
先生に順応できるかどうかというのも、学生生活を楽しく過ごすためには非常に重要な要素となってくる。
Y先生には、娘さんが一人いたが、僕の妹と学校が同じということもあり、親近感を持って6年間を過ごすことができた。
僕の中のY先生は、故事に強いという印象がある。
今でも忘れられない、教えて頂いた言葉。その一つが推敲(すいこう)。
Y先生が中国の故事を話される。
若い詩人が、どのように詩を書くのがよいのかを考えながら歩いている。
あまりにそのことに夢中になっていて、えらい人の行列にぶつかってしまう。
なにを悩んでいたか。
“僧は推す月下の門“か”僧は敲く月下の門“か。
いずれがよいのか。
そこから文章を何度も読んで、練り直すことを、推敲という、故事である。
故事の中では、ぶつかった行列のなかの一番えらい人が、漢詩の大家だった。
韓愈である。
韓愈は、”僧は敲く月下の門”がよいと言った。
今思えば、Y先生もきっと授業の前にしっかりと予習をされていたのに違いない。
授業の中では、30代のY先生が、もう20年以上前から知っているような顔をして、自信満々で話をされる。
生徒も、その勢いと自信に引き込まれていく。
Y先生の実家は、全国的に有名な神社の宮司を代々務めている。
当時は実兄が宮司をされていた。
僕が司馬遼太郎の歴史書に凝っていたとき、ある本のなかで、Y先生の4世代くらい前だろうか、当時の宮司のかたのお名前がでてきた。
名前に“良”という文字をつけるのが、Y先生の家では習慣だった。
4世代前の宮司さんも“良”がついていた。
それを知ったのは卒業してから何年も経ってからであるが、いわゆる由緒ある家柄なのである。
卒業後は、同窓会にはよく顔をだされていた。
年に1回の同窓会だったが、生徒の輪の中にも、自然と入って行かれる先生だった。
いまから10年以上前に亡くなられた。
亡くなられたときに思ったことは、もっともっと話をしておけばよかったということだ。
若いときは、往々にして年輩の方、自分の先生とは、話をしないことが多い。
そういう場を避けるところがある。
それが段々と自分自身が年を重ねると、話をしようと思ってくる。
話ができるようになる。
それが成長なのかもしれないが、がっぷり四つに組めるようになるのだ。
だが、その思いが強くなるころには、先輩も先生も亡くなられることが多い。
僕の6年間通して先生だった方は、3人おられる。
すでにみなさん、こちらにはおられない。
僕は、3人の先生との時間が少なかったことを、いつも残念に思っている。
悔やむことより、前を見て考えたいほうであるが、3人の先生とは、もっと話をしておけばよかったと思い返してしまう。

初めて授業を受けたのは中学1年のとき。Y先生は、ちょうど先生として脂の乗ってくるころだった。
国語の先生は、6年間同じ学年を持って上がる。
中学1年で出会った先生とは6年間一緒に過ごすことになる。
相性の良い先生もあれば、悪い先生というのも当然ある。
相性の悪い先生に巡り会った場合は、最悪であるが、中学1年というのは、まだまだどうにでもなる時期だ。
先生に順応できるかどうかというのも、学生生活を楽しく過ごすためには非常に重要な要素となってくる。
Y先生には、娘さんが一人いたが、僕の妹と学校が同じということもあり、親近感を持って6年間を過ごすことができた。
僕の中のY先生は、故事に強いという印象がある。
今でも忘れられない、教えて頂いた言葉。その一つが推敲(すいこう)。
Y先生が中国の故事を話される。
若い詩人が、どのように詩を書くのがよいのかを考えながら歩いている。
あまりにそのことに夢中になっていて、えらい人の行列にぶつかってしまう。
なにを悩んでいたか。
“僧は推す月下の門“か”僧は敲く月下の門“か。
いずれがよいのか。
そこから文章を何度も読んで、練り直すことを、推敲という、故事である。
故事の中では、ぶつかった行列のなかの一番えらい人が、漢詩の大家だった。
韓愈である。
韓愈は、”僧は敲く月下の門”がよいと言った。
今思えば、Y先生もきっと授業の前にしっかりと予習をされていたのに違いない。
授業の中では、30代のY先生が、もう20年以上前から知っているような顔をして、自信満々で話をされる。
生徒も、その勢いと自信に引き込まれていく。
Y先生の実家は、全国的に有名な神社の宮司を代々務めている。
当時は実兄が宮司をされていた。
僕が司馬遼太郎の歴史書に凝っていたとき、ある本のなかで、Y先生の4世代くらい前だろうか、当時の宮司のかたのお名前がでてきた。
名前に“良”という文字をつけるのが、Y先生の家では習慣だった。
4世代前の宮司さんも“良”がついていた。
それを知ったのは卒業してから何年も経ってからであるが、いわゆる由緒ある家柄なのである。
卒業後は、同窓会にはよく顔をだされていた。
年に1回の同窓会だったが、生徒の輪の中にも、自然と入って行かれる先生だった。
いまから10年以上前に亡くなられた。
亡くなられたときに思ったことは、もっともっと話をしておけばよかったということだ。
若いときは、往々にして年輩の方、自分の先生とは、話をしないことが多い。
そういう場を避けるところがある。
それが段々と自分自身が年を重ねると、話をしようと思ってくる。
話ができるようになる。
それが成長なのかもしれないが、がっぷり四つに組めるようになるのだ。
だが、その思いが強くなるころには、先輩も先生も亡くなられることが多い。
僕の6年間通して先生だった方は、3人おられる。
すでにみなさん、こちらにはおられない。
僕は、3人の先生との時間が少なかったことを、いつも残念に思っている。
悔やむことより、前を見て考えたいほうであるが、3人の先生とは、もっと話をしておけばよかったと思い返してしまう。
